今日は日曜日。
教会に行く。
礼拝司会と役員会を終え、会計の処理に奮闘する。
ところで本ブログで、オカブの行く教会が、乗っ取りカルトに侵入されて、その対応に四苦八苦している様を以前、何度も本ブログで紹介した。
その経緯の詳細はここでは書けないが、そのカルトの問題は思わぬ結末を迎えて終息した。
それを当事者として見ていたオカブは、万万が一こうした事態に直面したクリスチャンのために若干の経験談を語りたい。
教会の乗っ取りの事例は増加しているというのに、ネット上で、あまりにも具体的な情報が少ないことに問題意識を感じたという動機もある。
なお、ここではカルト問題を、教会の乗っ取りという事象のみからとらえ、個人のマインドコントロールからの脱却などの問題とは切り離していることを付言しておく。
①まず教会のために祈れ。
オカブはキリスト教信仰において教会は絶対の存在ではないと思っている。だから、キリスト教信仰を保つためには、家で静かに聖書を読み、祈りを捧げていることにより、キリスト者であることも可能だと思っている。ただ、一旦、教会に通い、洗礼を受け、教会員となったうえで、こうした災いに襲われたからには、その当人が、教会の一員としての自覚を持っていなければなにもならない。普段、教会や牧師、他の教会員に反感を感じたり、批判・中傷をしていないか?本当に教会のために十分な献金をなし、奉仕しているか?一度、自問自答すべきだ。そして、主がこの災いから教会を救ってくださるように、教会に平安と祝福が与えられるように、心から偽りなく祈るべきである。カルトから守る対象はあくまで教会である。教会は、一面、ゲマインシャフトである地上の組織であるが、一面ゲゼルシャフトである信仰共同体であり、主より召命を受けた伝道の器である。この点が整理されていないで、献金や奉仕に疑問を感じていては本末転倒である。教会の一員として、カルトから教会を守る決意をすること。そして、まず教会のために祈ることが重要である。
②専門家に相談せよ。しかし専門家は全てを解決してくれない。結局は自分たちが立ち上がるしかない。
仮にあなたの教会が、いずれかの教団に属していれば、その教団の規模にもよるが、カルト対策の窓口を持っていることが多い。まず、そのような機関に問題を投げかけるのが対策の一であろう。そうした機関には、乗っ取りカルトも含め、カルト対策に実績を積んできた専門家が必ずいる(多くの場合、牧師)。また、そうした機関がなくとも、カルト対策を専門に行っている第三者的な牧師や、組織はあるので、そうしたところに相談を持ち掛けてもよい。そこで、基本的・一般的アドバイスを聞けるし、そうした情報は大変、貴重なものである。しかし、そうした専門家も実のところ、最新のカルト情報には疎い場合が多い。また、専門家の信仰的立場や、教団の中の人脈など、非常に複雑で煩わしいハードルが存在するのは確かだ。また、専門家は、一面で牧会者なので、当然こうしたカルトも救済しなければならないという意識を持っている。従って、専門家に任せきりで、彼らがすべてを解決してくれると思ったら大間違い。さらに、専門家は牧師であるから、他の教会の問題に、深くかかわりすぎて、内政干渉することはできない。だから、問題を解決するのは、当事者である教会員の貴方しかいないということを強く自覚すべきだ。その上で、専門家の助言や支援を仰ぐことは非常に有用なので躊躇すべきでない。
③絶えず祈り、自らの信仰を固くせよ。
乗っ取りカルトとの闘いは、彼らを教会から排除するということを目的とする。もし、彼らを悔い改めさせ、真の信仰に立ち返らせることができれば、理想的な形だが、多くの場合、それは困難である。そこで、形の上では、信仰を求めて教会の門を叩いたカルトを排除するということは、キリスト者として大いに煩悶するところである。実際、オカブの教会では、反カルト闘争をする人が、親カルトの人から「あなたはそれでもクリスチャンなのか?」と糾弾されたことがある。こうしたクリスチャンとしての立場の矛盾を解決するには、祈り、自らの信仰を固くすること以外に方法はない。絶えず、神の言葉に耳を澄まし、主に従う決意を日々新たにしなければならない。その確固たる信仰から、悪霊に憑りつかれた人を教会から排除するという行為も正当化される。もちろん、そうしたカルトの人たちの魂のためにも祈らなければならないのはもちろんである。
④教会の内紛・亀裂にカルトは乗じてくる。教会の中では寛容の心を保ち平安の裡にいるべきだ。
当然ながら、教会の内紛や諸問題が存在するというのは好ましい状況ではない。しかし、多くの教会がそうした問題とは無縁ではないのは確かだ。だからといって問題を放置しておくべきではない。オカブの教会も、教会内に以前からあった問題にカルトが乗じて侵入してきた経緯がある。そのような、事態を未然に防ぐためにも、日常、教会員同士、寛容の心で接し、教会内を平安に保っておかねばならない。
⑤カルト問題で教会が分裂したら、敵対するものと徹底的に闘え。
常識的に考えて、乗っ取りカルトが教会に侵入してきたら、教会が一致団結して対抗するというのが当たり前の構図であろう。しかし、オカブの教会ではそうではなかったし、また他の乗っ取りカルトに侵入された教会もそうではない事例が多いという。危機感を抱く信徒に対して、牧師があまりにも楽観的で問題を深刻化し、致命的な事態に至ることも多いという。オカブの教会でも似たようなケースだった。反カルト派と親カルト派で、教会員と役員会が真っ二つに割れた。そうした場合、親カルト派とは徹底的に闘う覚悟が必要である。状況によっては、親カルト派をカルトともに追放するくらいの覚悟も必要になってくるだろう。ただ、「徹底的に闘え」といっても、熱い戦いを始終、挑めというのではない。時に、懐柔したり、妥協したり、同意する素振りを見せたり・・・・まさに、蛇のように敏く鳩のように従順に、を地でいかなければならない。また、そもそも、そのような反カルト派、親カルト派の分裂の構図を作らないためにも、④で述べたように、日常、教会を平安に保たなければならない。
⑥情報は徹底的に収集せよ。しかし、ネットには具体的な情報があまりにも少ない。
乗っ取りカルトとの闘いは情報戦である。まず、一般的なカルト対策の書籍、ネット上での情報、また、相手がメジャーなカルトであれば、その組織が出している書籍など、ありとあらゆる情報を収集する必要がある。専門家に相談したから、情報は専門家が持っているだろう、あるいは情報収集は専門家に任せておけばよい、などと考えてはいけない。先にも述べたが、『新天地』などの「老舗」の乗っ取り集団ならいざ知らず、専門家は案外、最新のカルト情報に疎いものである。情報は、当事者であるあなたが集めなくてはならない。結局、乗っ取りカルトとの闘いは、相手が乗っ取りカルトであるという「証拠」を掴めば勝ちで、ゲームオーバーである。しかし、その「証拠」を示す具体的な情報がネット上ではあまりにも少ないのである。端的に言えば、過去に、乗っ取りカルトの被害を受けた教会名や、問題のケースの情報がネット上には皆無といってよい。だからといって、ネット情報を軽んじていいと言っているのではなく、ネットにも有益な情報は多い。ただ、仮に被害を受けてカルトと戦っている教会にとって決定打となる情報がないのである。法令に触れない限り、勇気をもって情報を公開してくれる教会や個人が待たれる。
⑦神第一とすること。
オカブの教会を襲った乗っ取りカルトは非常にヒューマニスティックな趣旨を掲げる、しかも公的な信用の置けそうな団体・組織(2団体も!)を後ろに背負っていた。
またカルトの個々人もそのようなヒューマニスティックな(ある意味偽善的な)態度を装っていた。
こういうものに人間は弱い。
オカブの教会は牧師や役員がまんまとこれに騙され、それどころか相談を持ち掛けた教団のカルト対策の専門家までもが騙された。
人間誰しも情にほだされる面はあるが、ここで考えてほしい。
我々が依って頼むのは神の意思の裁定であって、人間的な情念や安っぽいヒューマニズムではない。
そういう意味で教会の牧師も教団のカルトの専門家(牧師)も聖職者失格といえよう。
我々はカルトに直面した場合に限らず、絶えず神を第一に置かねばならない。
でなければ自ずとカルトにも足を掬われよう。
また、こうした人間の弱点を突くカルトの巧妙な手段にも十分に注意しなければならない。
これは我々の信仰の「隙」でもあるのだ。
⑧結局、教会存続のための戦いである。
乗っ取りカルトとの闘いは、教会や教会員を疲弊させ、教勢を著しく削ぐことが多い。ここで、教会員が疲れ果て、教会を離れるようになっては、元の木阿弥である。乗っ取りカルトとの闘いは教会存続のための戦いである。教会が発展し、大いに伝道の器として用いられなければ意味がない。オカブの教会のように、一旦はカルトの魔手から逃れても、教会の再建という課題が待っている。ここで、教会員が力を合わせて、教会を盛り立て、伝道の業に励むことこそ真の乗っ取りカルトとの闘いに意味があった結果といえる。カルトは去ったが教会が廃れてしまっては全く意味がない。要は、仮にカルトが去った後に、信徒の教会に対する姿勢が、カルトとの闘いの締めくくりであり、そこで教会と信徒の真価が問われることになる。主の御心に従って、キリストの器官である教会を強め、自ら教会のために奉仕する決意が重要である。「進め主イエスの兵士らよ。見よ十字架は前に行く!」
朝明けて見上げる空に燕見ゆ 素閑