昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

千種・秋の風・秋草・白露@寿福寺・英勝寺

2017-09-07 12:36:19 | 旅行記

今日は鎌倉紀行の最後。
旅中で詠んだ句三句と、今日の投句一句。

鎌倉駅南口に出て、小町通りを辿る。
そして向かった先は寿福寺。
「やぐら」が見たかったからだ。
「やぐら」は鎌倉に特有の墳墓形式で、岩窟をくり貫いた中に、墓塔が立っている。
ここで北条政子と源実朝の墓と言われるやぐらを見た。
手向けの花が枯れ果てて、哀れを感じさせる。

果つる日を想ひ供ふる千種かな   素閑

道を少し辿ったところにある英勝寺へ行った。
英勝寺は東光山、浄土宗の尼寺だ。
「英勝寺を開いたのは、家康の側室阿勝の方である。この女性は太田道灌四代の孫康資の娘で、十三歳で徳川家に仕え、やがて松姫、市姫を産んだが育たなかった。それで阿万の方が産んだ頼房を養子とした。頼房は水戸徳川家の祖となる。のち薙髪して英勝院長誉清春といい、頼房の娘を剃髪させて英勝寺の開山とした。玉峯清因がそれである。以来、歴代住職は水戸家の息女を迎えるならわしとなった」(加藤慧著「武蔵野の石仏」より)
寺内は清浄だった。
品格のある仏殿が優雅だ。
境内の外れに竹林があった。
鎌倉の寺の竹林というと、報国寺のものが有名だが、ここの竹もなかなか趣がある。


竹林の衣擦れの音とも秋の風   素閑

英勝寺の境内は意外に広く、林に覆われた庭を、ぐるりと一周してこれる。


秋草に埋もれ朽ちゐる五輪塔   素閑

鎌倉駅に戻り、藤沢に出て小田急で帰宅した。

さて、これで2008年の「鎌倉藤沢紀行」は終わり。

では、今日の投句を一句。

雨降りて部屋に物干す白露の日   素閑


 


 



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秋の風・蜩・秋刀魚@建長寺・鉢の木・東慶寺・浄智寺

2017-09-07 03:53:07 | 旅行記

前の逗子を拠点とした鎌倉旅行記の続き。
紀行中詠んだ句二句と、今日の投句一句。

建長寺に参拝し『鉢の木』で精進料理の昼食を摂った。
唯一夏期のメニューの「北条」、延命湯葉に鎌倉ビール、特製冷酒「北条時宗」。
湯葉や、生麩、飛龍頭、夏野菜が見栄えよく盛られた弁当で、まあ鎌倉に来たときの記念だ。
オカブがたった一人の客だった。
仲居さんが、昨日はお客さんで賑わっていたんでございますがねぇ、とぼやいていた。

線路を渡って、東慶寺へ行った。臨済宗の禅寺だ。
その昔、この寺は、縁切り寺として知られ、夫から逃れた女人はこの寺に駆け込むと離縁が成立されるとされていた。
また、禅学者、鈴木大拙がこの境内に松が岡文庫と呼ばれる草庵を結び、著述に専念したことでも知られている。
禅の研究そのものはもとより、その著述の原文の多くは英文で書かれ、禅の海外への普及に大いに貢献した。
その、鈴木大拙夫妻の墓は、岩波茂雄、西田幾多郎、安部能成とそうそうたる人物の墓の並ぶ奥に、質素な五輪の塔が立っていた。
このなかで、岩波茂雄の墓が際立って立派だった。学者と実業家との財力の違いだろうか。
墓域は見るべきものが多すぎて雑然とした印象だった。
しかし、境内は禅院らしい、秩序だった作庭で、茶席では、ちょうど飯後の会が開かれていた。

蜩の啼きて哲人虚しきや   素閑

道を戻り浄智寺に行った。この寺も臨済宗の禅寺で、鎌倉五山の一。
趣のあった山門は、真新しく改築・新装されていた。
拝観料200円也。
浄智寺の山内は、荒れた感じで、手入れが行き届いていない様子。
東慶寺の整然としたいでたちとあまりにも異なるので、途方に暮れてしまった。
雨が上が上がった。

荒れ寺の塚蕭々と秋の風   素閑

ただ、拝観コースは観光客向けに、趣向が凝らされていた。
腰越の山越えの疲れもあり、もう足が棒のようだ。
足を引きずるように北鎌倉の駅に戻り、宿へ帰った。

紀行はひとまず休憩。まだ続く。
今日の一句。

賤の家で焼ける秋刀魚も貴きや   素閑


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秋の蝶・秋麗@法性寺・名越の切通

2017-09-05 15:37:26 | 旅行記

10年近く前、逗子を拠点に鎌倉へ行ってきた。
その時の紀行と、詠んだ句一句、それに今日の投句一句。


逗子の駅前のドトールに入って、今日の行程の計画を練る。
取り合えず、法性寺を通り、名越の切通しを越えて鎌倉に出てみようと思った。
細い、車の疾駆する街道を法性寺へ向かう。
法性寺は猿畠山、日蓮宗の寺だ。
日蓮が松葉が谷で焼き討ちの難に遭ったとき、身延山の山神である猿が、日蓮を導いて、難を逃れたと言う。
街道から大変な坂道で難儀したにもかかわらず、山門からも、急な坂が続いている。
雨が降ったりやんだりする中、大汗を流して坂道を辿った。
法性寺の本堂は、坂道の尽きた、小高い頂にあった。
これは、ちょっとした山岳宗教だ。
本堂の向こうは墓地になっていた。
名越の切通しには、まだ坂道を登らなければらない。
墓地の外れの草に覆われた小道を探し出して、分け入って行く。
しかし、大変な山道だ。
枝がかぶさり、手で掻き分けながら、あえぎあえぎ登る。


深山に道を案内す秋の蝶   素閑
  
ここに来た目的の一つである、まんだら堂やぐらへ続く山腹は、固く鉄線が張られ、立ち入りができないようになっていた。
数十年前、ここを訪れたときには、法を説く老人が居て、この道筋には、法を聴聞し法華経に帰依するもののみが、やぐらに参詣できる、と書かれた看板が掲げられていた。
またも、まんだら堂を見逃し、がっかりして峠を越した。
ここから、道は急な下り坂。
山道を過ぎ、アスファルトの道になって、住宅街に入った。
鎌倉の市街を抜け、若宮大路に出た。
鳥居を抜けて、一応、八幡宮に形ばかりの参拝した。

紀行は取り敢えず今回はここまで。
今日の投句。

世過ぎにて嘆きもあらじ秋麗や   素閑



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法師蝉・秋祭り・秋意@遊行寺にて

2017-09-02 09:48:38 | 旅行記

秋めいていたのだが、前夜から、また雨だ。
今日は、北澤八幡の例大祭だというのについていない。
雨では、仕方がない。
数年前の鎌倉旅行について綴る。
この時も雨だった。
雨の鎌倉へ行く前に、藤沢で遊行寺に寄ってきた。
遊行寺は時宗総本山。
時宗は一遍上人が開いたものだ。
「一遍上人は伊予国河野通広の子で浄真といった。はじめ叡山にのぼって天台宗をきわめ、その後浄土宗西山派に学んだ。禅宗や神社信仰とも接触し、教理よりも実行によって民衆を教化した。その念仏踊りはむかしから民間にあった踊りに仏教をとりいれたものである。
一遍という名は、熊野の証誠殿で「六号名号一遍法」の神託の偈を感得したことによるそうである。
一遍の教団を時宗、古くは時衆といった。在来の宗教ではないという意味であろう。一遍は空也上人になぞらえて、諸国を行脚し、念仏をひろめた。彼の後継者も代々遊行したので、遊行上人とよばれた。
正中二年、遊行四代他阿上人が藤沢に一寺を建立した。遊行寺は正しくは藤沢山清浄寺という。記録によると、延文年中に足利尊氏が堂宇を修造したとある。大正十二年の関東大震災で堂塔の多くは倒壊した」(加藤慧「野の道・野の塔・野の仏」)
遊行寺には、適当に当たりをつけて、足を向けたが、途中で迷ってしまいまった。
駐車場の警備員の人に道順を聞くと、丁寧に教えてくれた。
大通りを右に曲がると、藤澤橋という大きな橋が架かっている。
遊行寺の境内は広々としていて、さすが総本山の格式だ。
小栗判官と照手姫の塔が見たかったのだが、塔中の長生院の墓域は閉じられていた。
換わりに、遊行寺境内の小栗堂という建物を見てきた。
堂宇を囲んで墓が並んでいる。
無縁塔もあり侘しい心持になった。
小栗堂に上がっていく坂道の途中に、地蔵の群れがあった。
石塔ばかりを見てきた目にはなにかほっとさせられる。

法師蝉雨の木立と六地蔵   素閑

境内の入り口の近くには、「怨親平等碑」がある。
応永二十二年、上杉氏憲と足利基氏が戦ったときの敵味方の戦死者、軍馬を弔って、十五世尊恵上人が建てたものだ。赤十字精神の濫觴として史跡に指定されている。
祭の準備だろうか、法被にねじり鉢巻の男が集まっている。

雨降りて氏子たむろす秋祭り   素閑

男たちが立ち上がり、一仕事始めようとするのを潮に遊行寺を後にした。

ふるでらの松の枝端に秋意あり   素閑

 


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エルさんと信州旅行 Part2.

2016-12-27 20:31:25 | 旅行記

雨の朝である。
これで旅情は細やかなものになった。
6時に起きて露天風呂を使う。
8時半朝食。
8時ころエルさんに携帯でメールを入れたら、エルさんはもう起きていた。
朝食は非常に吟味された、リッチなもの。十分に食べた。

一夜を過ごした宿ともお別れである。もう一度、複雑な構造の、宿の中を見ておく。

宿に荷を預けて北向き観音と、安楽寺、常楽寺に向かう。出しなに、傘を貸してくれる気持ちのいい宿であった。
別所の温泉街を抜け、北向き観音を見る。
エルさんには慈覚大師と別所温泉の由来などの蘊蓄を垂れる。

安楽寺の山門までは長い石段を上る。
安楽寺では国宝八角三重塔を見た。
雨のせいか、長居する気にもなれず、周囲を眺めただけだった。
塔は墓域の中にあった。
塚を見るほうが相応しいような天気だった。

常楽寺に向かう。
重文の多宝塔は厳重な囲いがしてあった。
なにか不自然だ。興が薄い。
常楽寺の美術館は閉まっていた。
庫裏に声をかけると、親切な梵妻さんが出てきて、年末年始は休みなのだが、特別に開けてくれるという。
紅葉狩りの絵巻が見たかったのだ。近代の作だが何故か惹かれる。
エルさんに平維茂と紅葉狩りの解説をしてやる。

しかし、この子は知識はないのだが、好奇心はすごい。一言話すと、なぜ?それはなに?その関係は?と質問攻めに遭う。
宿から荷物を回収して、上田に戻る。

小諸に出て、懐古園を見ようというプランだ。
しなの鉄道で30分弱で小諸に着く。
懐古園は閑散としていた。
島崎藤村記念館など、博物館、美術館が園内にあって、それを見て回れる、共通券500円也を買った。
しかし、博物館を見るよりも、閑散とした城跡の中を散策したほうが情が深い。
まさに、「小諸なる古城の畔遊子悲しむ」の世界である。

懐古園娘と二人冬の雨   素閑


 

懐古園で3時間ほど過ごした。 
佐久平に出て、15時46分の新幹線で帰京した。
帰りの新幹線の中のエルさんとの話題は日本国憲法談義であった。
楽しい二日の旅はあっという間に過ぎた。
エルさんと、下北沢の『すし好』でビールを飲み食事をして、旅を締めくくった。 

 

 


エルさんと信州旅行 Part.1

2016-12-26 23:06:52 | 旅行記

エルさんのクラスの生徒が真田丸ファンであるという。
その子は、かなりマニアックな子で、いろいろな知識を仕入れては披瀝したり、担任であるエルさんに質問してくるという。
エルさんもその対応で、いろいろ調べたり勉強しているうちに、すっかり真田丸ファンになってしまった。
そこで、冬休みになった早々、上田に旅行に行きたいと言い出す始末。
さて誰と行くか?
かーたんは一人旅は絶対反対。友達は、急なプランなので予定が合わない。でもかーたんはまだ仕事がある。
そこで、該博な歴史の知識をもち、暇もたんとあるオカブにお鉢が回ってきた。 
娘と二人だけの旅行。今からワクワクする。
3日前に東京駅発7時52分はくたかの指定券を入手し準備万端。
6時半に家を出る。
エルさんは眠そう。学期中の疲れがたまっているのだろう。オカブも昨日は半徹夜だ。
東京から北陸新幹線はくたかに乗る。
早速、朝食の弁当。オカブは鯛の押しずしにプレミアム・モルツ。エルさんはイクラとサーモンの寿司。
弁当を食べ終わると、大宮から軽井沢あたりまで目が覚めなかった。
上田到着9時17分。
すぐに上田城址へ足を向ける。
エルさんのお目当ては『真田丸大河ドラマ館』だ。
ここは、NHKの大河ドラマ『真田丸』のストーリーを中心に歴史背景などを解説するもの。
オカブには退屈だったが、好奇心旺盛のエルさんにとっては興味津々。
オカブは質問攻めに遭う。第二上田戦争で、上田に釘づけにされた徳川秀忠の参謀、本多正信のこと、それに対して反対意見を述べた戸田一西のことなどを話してやる。
それと真田昌幸が上杉攻めから帰陣し長子信幸の居城沼田を通りかかった折、留守を預かる信幸夫人の行動を見て、「まことに本多が女なり」と感嘆して、沼田を素通りしたことなども話してやる。

 上田場内は意外と狭かった。
櫓などに登るが、観光地ずれしていて、感興が薄い。
三の丸を回って、人気のない、静かな散策道が、唯一ほっとできる場所だった。
城見物が終わると、腹拵え。
大手門の脇にある適当な『草笛』という蕎麦屋に入る。ドライブインを兼ねているような大きな新しい建築の蕎麦屋である。
中は広く、観光客で混んでいた。
オカブは盛り二枚に濁り酒。エルさんは玉子蕎麦。
こりゃ、大人数向けの大量生産式蕎麦屋だなと思ったが、蕎麦は意外とうまかった。
本場信州では蕎麦にははずれはないということか?
ただ盛り二枚は多すぎた。一枚が凄いボリュームである。


 

城跡を後に上田駅に戻って、上田別所線を待つ。
30分ほどの小さな電車の旅だ。
3時過ぎに別所温泉の駅に着く。
可愛いレトロな駅舎だ。

 今日の宿、『花屋』に歩く。
駅から程ない距離だ。
部屋に案内されて、寛ぐ。
実は、エルさんのたっての要望で、部屋は一人一部屋で、経済効率を無視して、二部屋取ってあったのだ。
一休みしてまずは、風呂。
露天風呂はこじんまりした気持ちのいい湯であった。

枯れ枝の曼陀羅みつつ信濃の湯   素閑 

この宿は、まさに大正時代に建てられた建築で、大時代で古めかしいところはあるが、まさにそのものが大正ロマンであった。

 

風呂から上がって、ビールなどを飲んでいると、食事の時間。
食事は口通り、前菜から始まって、椀物、造り、煮たもの、台もの、焼き物、ご飯、みそ汁、デザートと続く、京風懐石風料理。
上品な汁物の味わいに、料理の確かさを感じた。
日本酒も吟味されているが、エルさんの手前、控えめに行った。
しかし満足、満足!

 

 夕飯後、こんどは内湯の大理石風呂に入り、部屋に戻り、後は前後不覚に寝た。


鬼怒川温泉に行ってきた

2013-08-27 04:27:00 | 旅行記

かーたんと8月末に休みを取って鬼怒川温泉に行ってきた。
詳細は旅行記の出来をお待ちいただくとして今日は記念の一枚を置いておく。
宿は、いつもの「花の宿松や」である。

虫の音にゆかしとおもゆ渓の湯や      素閑

 

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伊豆熱川

2010-08-24 20:15:00 | 旅行記

24日から26日まで伊豆、熱川に行って来た。宿は「熱川ハイツ」。温泉とはいっても、単なる物見遊山ではなく、研修会への参加の目的で言ったわけだから、ほとんど宿の会議室に缶詰である。2日目のエクスカーションにも行かないで、温泉に入りビールを飲んで半日を過ごした。だから、観光の満足と言う意味ではなんの面白みもない旅行だった。ただ、食事はすこぶるご馳走だったので、その画像を掲げておく。こんな舌の栄養をしょっちゅうしているわけではない。年に1回のご馳走である。

   大島を望む湯に入り秋を知る     素閑


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倉渕(三日目)

2010-05-08 18:45:00 | 旅行記

さて、倉渕の最終日。もろもろの事情を考え合わせ、少し早いが、11時37分落合発のぐるりんで帰ることにする。からりと晴れた五月晴れ。朝方Hの好意で榛名山神社に案内してもらった。榛名山神社というと東京人にはちょっと縁が遠いようにも思えるが、参道の石柵の寄進者の名前には、オカブ家からも程近い三軒茶屋や上馬在住の方の名も刻まれていた。さて、オカブはこの関東の名刹をとんとご存じなかったわけで、昨日の榛名湖もそうだが、こんな山深い奥になんと開けた一大山岳道場が存在しているのは驚きの一言であった。しかし、榛名湖も榛名神社も伊香保からの道が表口で、倉渕からの往来はあまりないというHの言だった。山道を車で登っていくと、人家が両脇に現れ、それはこの神社の講の宿坊であった。それがかれこれ七八軒もあったろうか。とにかく大規模な神社である。急勾配の参道の坂道をヒイコラ登っていくと、石畳が尽きて、今度は急な石段になる。石段の曲がり角の要所要所にはいわく因縁付の建造物や、瀧、岩などがあり退屈しない。途中にお土産を売る茶店などもあり、サービスに漬物を出すなどビジネスマインドも旺盛で榛名神社はなかなか侮れない。さて石段が尽きた奥社に着き、Hがこれがご神体だというに、頭の上を優に40mはあろうかという縦長の大岩の上にこけしの頭のごとく砲丸上の大岩が載っている。そこに注連縄・御幣が祭られご神体となっているのだが、なるほど、これほどの奇勝なら昔の人だったらきっと伏し拝みたくなるだろうと納得するほどの、驚くべき自然の造形である。まあ、謹んで参拝させていただいた。この朝早いのに神社に参拝する善男善女があまたいて、中にはHがあれは歴女だろうとするような若い女性のグループの参拝客などもいた。また麓まで戻ってきて、蕎麦や川魚料理を供する食堂や土産物屋などを横目で見ながら、駐車場にとめてあったHの車の車上の人となる。まだ時間が早かったのでH邸に帰り、茶など飲んで時間をすごした。そして、Hに落合まで車に乗せてもらって、再会を約し別れを告げ、「ぐるりん」で高崎へ。列車の接続もよく20分ほどで小田原行きの湘南スカイライナーに乗り込んだ。3時間後には自宅で、荷物をといてHから土産にもらった、筍と蕨の下処理をかーたんに命じ、すっかり寛いでいた。

 

   初夏の岩清水の音の快き     素閑

 

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