今日、飼い猫のジロが死んだ。
あまりに急なことなので、ただただ、目の前の事実に泣きくれるばかりで、心の整理ができないままにいる。
かーたんとエルさんの話によると、いつもの猫缶とカリカリの朝食をとらせた直後、餌を吐いて、昏倒したという。すぐに近くの獣医に駆け込んで心臓マッサージ等できうる限りの処置をとってもらったが助からなかった。獣医から遺体を引き取ってきたかーたんからそのことを聞かされ、思わず号泣した。思えば、2006年のクリスマスの日、天涯の孤児のムギとジロの姉弟を猫の里親ボランティアの建具屋さんから引き取って、家族同然に育ててきた。ジロは楽しいやつだった。ひょうきんなやつだった。猫はもとよりツンデレだが、本当にジロとムギは私たち家族のうちで愛情が通い合っていた。ジロを囲んで家族には笑いが絶えなかった。もらわれてきてから今までの数々のジロの思い出が尽きない。花を買ってきて遺体を覆ってやり、涙にまみれるかーたんとエルさんとオカブでお弔いをしてやった。それぞれが追悼の祈りを捧げ、みんなで讃美歌を歌った。まだクリスチャンではないエルさんも、思いのたけをぶつけて神様に祈った。たかが猫のことぐらいでと言うなかれ。かーたんとオカブにとってはジロは息子、エルさんにとっては可愛い弟だったのだから。そしてジョットの『小鳥に説教するサン・フランチェスコ』の画もあるではないか。この際、愛するものの人間と動物との違いはないに等しい。2時過ぎに区役所の人が遺体を引き取りに来た。お別れである。棺代わりの段ボール箱を花で埋め、エルさんの描いたジロの画と、聖句カードを入れてやった。われわれは、ジロのことを天に召されたと、ためらいもなく語った。そして神の祝福を祈った。ただ一匹残されたムギのこれからの守りを祈った。人間の逝去のときとなんら変わりはない。人間中心的なキリスト教的に教義に適って正しいかはわからない。たぶん、正しくないのであろう。しかし、このとき私たち家族の中で、根源的な信仰へ向かう心が一つになって、究極的に素朴な、本当に素朴な恩寵を希求する意思が生まれたことは確かである。
大学で児童教育を専攻するエルさんにとっては、死生観を学ぶよい機会になったとは思うが、今はそんなことをあれこれ考える余裕などはない。ただただ、ジロが主の御許に還り、祝福を享け天に在ることを願うばかりであった。
何を書いているか意を尽くせない。いまはただただ猫のことで悲しみの中にある。
ジロ。享年5歳。
猫逝きぬ梅雨の晴れ間の讃美歌や 素閑