昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

かーたんが入院した。

2016-10-14 22:36:31 | 悩み

かーたんがひどい扁桃炎に罹り、今日東京医療センターに入院した。先週、結婚記念日を盛大に祝ったばかりだというのに・・・・
今朝、かかりつけの耳鼻科の先生を受診したところ、呼吸困難になる危険もあるということで、すぐに紹介状を書いていただき、スムーズに入院することが出来た。
何か大ごとのようだが、本人は喉の痛みを除けば見た目は至って元気だ。今は点滴の治療を受けている。
下は病院食。もう固形物が出された。
まるで病気のデパートのようでお恥ずかしいのですが、お祈り頂ければ感謝です。

妻病めりそこはかとなく秋冷や   素閑


花祭り。

2016-04-08 12:06:44 | 悩み

今日は、いわゆる「花祭り」である。
2500年の昔、4月8日の今日、釈尊が「天上天下唯我独尊」と産声を上げ、ルンビニの園で生まれたとされる。
今日は、どこの寺院でも、釈尊を祀った花御堂を飾り、参詣客を迎える。
そこで、病院の帰り、淡島の森厳寺に寄ってきた。
ところで、かーたんの生体組織検査の結果が一昨日の火曜日に出た。
結果は大腸癌だった。
この事実を繰り返し繰り返し反芻したこの一両日だが、淡々とした日常が淡々と過ぎていくばかりだ。
かーたんもそんなに落ち込んでいない。
しかし、事の大小はあるものの命の危機を伴うことには違いない。
縁起でもないと言われるかもしれないが、死後の世界について、キリスト教界では統一見解がない様だ。
これまで何人かの牧師から「神の国」、「復活の後」、「天国と地獄」、そして「死後の世界」についての考えを聞いたことがあるが、答えは十人十色だった。
こういう教義上の重大問題にも統一したものがないということで、他は推して知るべしだが、「天国と地獄」についてアメリカの神学者ティム・ケラー師が興味深いことを語っていた。お手元に聖書のある方はルカによる福音書16章19節から31節をお読みいただきたい。有名な金持ちと乞食のラザロの一編である。ここをひもといてケラー師は死とは、ご破算に願いましてプラマイゼロの世界だという。すなわち、プラス10で生きてきた者は死によって10を失い、マイナス10によって生きてきた者は死によって10を得るという。だから失う者にとっては死は地獄であり、得る者にとっては死は天国であるとのことだ。首肯した。
死は全く誰にでも平等にやってくる。
我々はもっと死において開き直っていいし、死を誇っていいと思う。
堂々と大往生を遂げるのも、人を救った代わりに犠牲となった尊いとみなされる死も、見苦しく「死にたくない。苦しい」とのたうった死も、死という事実には変わりはない。
どのように立派な教説を垂れても、誰にも惨めな死は訪れる。
どんな見苦しい生を送ってきても、誰もが死によって清算される。逆にどのような立派な生を送ってきても死によってご破算になる。
死は、まったく平等だ。
だから、誰もが死を誇ってよいのだ。
花祭りの日、ケラー師の講演を聞きながら、うちらは得る者だなあ、と思いながらこんなことを考えた。

仏性の命ながらめ灌仏会   素閑



 


猫の死

2010-06-25 18:50:18 | 悩み

今日、飼い猫のジロが死んだ。

あまりに急なことなので、ただただ、目の前の事実に泣きくれるばかりで、心の整理ができないままにいる。

かーたんとエルさんの話によると、いつもの猫缶とカリカリの朝食をとらせた直後、餌を吐いて、昏倒したという。すぐに近くの獣医に駆け込んで心臓マッサージ等できうる限りの処置をとってもらったが助からなかった。獣医から遺体を引き取ってきたかーたんからそのことを聞かされ、思わず号泣した。思えば、2006年のクリスマスの日、天涯の孤児のムギとジロの姉弟を猫の里親ボランティアの建具屋さんから引き取って、家族同然に育ててきた。ジロは楽しいやつだった。ひょうきんなやつだった。猫はもとよりツンデレだが、本当にジロとムギは私たち家族のうちで愛情が通い合っていた。ジロを囲んで家族には笑いが絶えなかった。もらわれてきてから今までの数々のジロの思い出が尽きない。花を買ってきて遺体を覆ってやり、涙にまみれるかーたんとエルさんとオカブでお弔いをしてやった。それぞれが追悼の祈りを捧げ、みんなで讃美歌を歌った。まだクリスチャンではないエルさんも、思いのたけをぶつけて神様に祈った。たかが猫のことぐらいでと言うなかれ。かーたんとオカブにとってはジロは息子、エルさんにとっては可愛い弟だったのだから。そしてジョットの『小鳥に説教するサン・フランチェスコ』の画もあるではないか。この際、愛するものの人間と動物との違いはないに等しい。2時過ぎに区役所の人が遺体を引き取りに来た。お別れである。棺代わりの段ボール箱を花で埋め、エルさんの描いたジロの画と、聖句カードを入れてやった。われわれは、ジロのことを天に召されたと、ためらいもなく語った。そして神の祝福を祈った。ただ一匹残されたムギのこれからの守りを祈った。人間の逝去のときとなんら変わりはない。人間中心的なキリスト教的に教義に適って正しいかはわからない。たぶん、正しくないのであろう。しかし、このとき私たち家族の中で、根源的な信仰へ向かう心が一つになって、究極的に素朴な、本当に素朴な恩寵を希求する意思が生まれたことは確かである。

大学で児童教育を専攻するエルさんにとっては、死生観を学ぶよい機会になったとは思うが、今はそんなことをあれこれ考える余裕などはない。ただただ、ジロが主の御許に還り、祝福を享け天に在ることを願うばかりであった。

何を書いているか意を尽くせない。いまはただただ猫のことで悲しみの中にある。

 

ジロ。享年5歳。

 

    猫逝きぬ梅雨の晴れ間の讃美歌や     素閑

 

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