昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

教会乗っ取りカルトに対する対処法

2022-08-16 20:31:11 | 宗教

ブログは休止したままだが最前回(もう3年以上の記事)で教会乗っ取りカルトに侵入された場合の概括的対処法を投稿した。
今、統一協会(教会)の問題が世間を騒がせているので、政治家への浸透や、個人の財産の収奪などとは切り離した、【キリスト教会を乗っ取るカルト】への対抗の手段を参考までに前回よりも具体的に書いていこうと思う。
①あらゆる人間社会の存在は「カルト性」を持つ。
現在、既存の宗教団体は新興宗教も含め、我々は統一協会とは異なりカルトに非ず、と主張していることであろう。
しかし、既存の「宗教」団体も財貨・商品を提供せず、献金・布施という報酬を受け取る点では統一協会と異ならない。
さらに私が教会に侵入したカルトと闘った時、対応検討の席に招いた教団の統一・原理問題懇談会・代表世話人と称する人物は「カルト」とは異端と異なり「反社会的な」集団だと宣った。
しかし「反社会的な」集団とはどこで線引きをするのかという疑問が残る。違法行為をすれば反社会的な存在なのか?一旦、違法行為をすれば永遠にカルトとして糾弾されるべきものか?問題点は大きい。
結局、宗教団体はもちろん、我々市井の一個人も他者を支配しようとする潜在的欲求を持っている限り「カルト的」なのである。
ここを大前提に議論を進めなければならない。
②教会を乗っ取ろうとするのは#新天地のみではない。
教会の乗っ取りというとまず韓国発のカルト集団#新天地が思い浮かぶが、教会乗っ取りを行おうという集団は#新天地に限らない。
#新天地以外のあらゆる新興宗教系の「カルト」と見られている宗教団体も条件さえ整えば、既存の教会を乗っ取ることに躊躇しない。
#新天地は教会乗っ取りを「専業」として、長期の綿密に練られた計画で乗っ取り行為を行うから単に目立って見えるだけである。
ありとあらゆる新興宗教系カルト集団に教会に乗り込まれたら乗っ取られる危険があると考えてよかろう。
そもそも事情は若干異なるが教会乗っ取りは既存のキリスト教伝統宗派の中でも起こっているではないか?
教会乗っ取りは遍在し絶えず危険に対して対策を練っておくことは無駄ではない。
③教会規則の戒規が重要。
前にも述べたが、教会に侵入してきたカルトを真の信仰に立ち返らせることができたら、それは理想的な形だが実質的にそれは不可能である。
従ってカルトとの闘いは彼らを教会から排除することを最終目的とする。
そのためには教会規則(管轄官庁に提出する宗教法人規則ではなく個々の教会が定める個別の規則)に於いて除籍、出席停止、陪餐停止などを定めた戒規が重要になってくる。カルトを除籍決定する場合、戒規にその定めがあって初めて(その教会における)法的な裏付けが担保される。
しかしキリスト教会における「戒規」とは一旦、信仰告白をした者を教会から排除するという行為に対してかなり慎重である。
プロテスタント最大の宗教組織である日本基督教団でも教会員になった信徒を永久追放することは絶対に不可能のようである。
とはいえ、こうした敵対的侵入者に対する戒規が未整備の教会も多い。
早急に乗っ取りカルトを見据えた規則における戒規を整備すべきである。
④総会・役員会で多数派を取ることが最大の鍵
多くの教会役員の選挙制を取っている教会では予算総会で役員を選挙する場合が一般であろう。
この際、カルトに投票権があるとしたら反カルト側はいかなる手段を取ろうともカルトが役員に選任されることを阻止しなければならない。
標題に役員会で多数派をとることが重要と書いたがカルトが一人でも役員に選任されれば実質的にその教会の運営は崩壊したも同然であろう。
また教会規則に役員就任は洗礼後一定の期間を設けなければならないとする教会は多いが、そのような規定はこういった状況に対して何の役にも立たない。
カルトを教会から排除するには反カルト派の泥臭い多数派工作が必要である。
「多数派工作」と聞いて疑問に思った方もいるかもしれないが、教会にはカルトに味方する教会員、役員、更には牧師までがもいて、乗っ取りカルトに侵入された場合非常に複雑な様相を呈する場合がある。
こういう教会内部の敵とも闘っていかなければならないのがカルト闘争の異常な一面である。
であるから対カルト比のみならず教会内のカルトの味方に対しても多数派を構成することは必須である。
それができなければ教会は必ずやカルトに乗っ取られるであろう。

ご健闘を祈る。

更けゆきて古書のしじまに秋を知る  素閑

 


乗っ取りカルトが教会に侵入してきたら?

2019-10-15 15:07:30 | 宗教

今日は日曜日。
教会に行く。
礼拝司会と役員会を終え、会計の処理に奮闘する。
ところで本ブログで、オカブの行く教会が、乗っ取りカルトに侵入されて、その対応に四苦八苦している様を以前、何度も本ブログで紹介した。
その経緯の詳細はここでは書けないが、そのカルトの問題は思わぬ結末を迎えて終息した。
それを当事者として見ていたオカブは、万万が一こうした事態に直面したクリスチャンのために若干の経験談を語りたい。
教会の乗っ取りの事例は増加しているというのに、ネット上で、あまりにも具体的な情報が少ないことに問題意識を感じたという動機もある。
なお、ここではカルト問題を、教会の乗っ取りという事象のみからとらえ、個人のマインドコントロールからの脱却などの問題とは切り離していることを付言しておく。

①まず教会のために祈れ。
オカブはキリスト教信仰において教会は絶対の存在ではないと思っている。だから、キリスト教信仰を保つためには、家で静かに聖書を読み、祈りを捧げていることにより、キリスト者であることも可能だと思っている。ただ、一旦、教会に通い、洗礼を受け、教会員となったうえで、こうした災いに襲われたからには、その当人が、教会の一員としての自覚を持っていなければなにもならない。普段、教会や牧師、他の教会員に反感を感じたり、批判・中傷をしていないか?本当に教会のために十分な献金をなし、奉仕しているか?一度、自問自答すべきだ。そして、主がこの災いから教会を救ってくださるように、教会に平安と祝福が与えられるように、心から偽りなく祈るべきである。カルトから守る対象はあくまで教会である。教会は、一面、ゲマインシャフトである地上の組織であるが、一面ゲゼルシャフトである信仰共同体であり、主より召命を受けた伝道の器である。この点が整理されていないで、献金や奉仕に疑問を感じていては本末転倒である。教会の一員として、カルトから教会を守る決意をすること。そして、まず教会のために祈ることが重要である。

②専門家に相談せよ。しかし専門家は全てを解決してくれない。結局は自分たちが立ち上がるしかない。
仮にあなたの教会が、いずれかの教団に属していれば、その教団の規模にもよるが、カルト対策の窓口を持っていることが多い。まず、そのような機関に問題を投げかけるのが対策の一であろう。そうした機関には、乗っ取りカルトも含め、カルト対策に実績を積んできた専門家が必ずいる(多くの場合、牧師)。また、そうした機関がなくとも、カルト対策を専門に行っている第三者的な牧師や、組織はあるので、そうしたところに相談を持ち掛けてもよい。そこで、基本的・一般的アドバイスを聞けるし、そうした情報は大変、貴重なものである。しかし、そうした専門家も実のところ、最新のカルト情報には疎い場合が多い。また、専門家の信仰的立場や、教団の中の人脈など、非常に複雑で煩わしいハードルが存在するのは確かだ。また、専門家は、一面で牧会者なので、当然こうしたカルトも救済しなければならないという意識を持っている。従って、専門家に任せきりで、彼らがすべてを解決してくれると思ったら大間違い。さらに、専門家は牧師であるから、他の教会の問題に、深くかかわりすぎて、内政干渉することはできない。だから、問題を解決するのは、当事者である教会員の貴方しかいないということを強く自覚すべきだ。その上で、専門家の助言や支援を仰ぐことは非常に有用なので躊躇すべきでない。

③絶えず祈り、自らの信仰を固くせよ。
乗っ取りカルトとの闘いは、彼らを教会から排除するということを目的とする。もし、彼らを悔い改めさせ、真の信仰に立ち返らせることができれば、理想的な形だが、多くの場合、それは困難である。そこで、形の上では、信仰を求めて教会の門を叩いたカルトを排除するということは、キリスト者として大いに煩悶するところである。実際、オカブの教会では、反カルト闘争をする人が、親カルトの人から「あなたはそれでもクリスチャンなのか?」と糾弾されたことがある。こうしたクリスチャンとしての立場の矛盾を解決するには、祈り、自らの信仰を固くすること以外に方法はない。絶えず、神の言葉に耳を澄まし、主に従う決意を日々新たにしなければならない。その確固たる信仰から、悪霊に憑りつかれた人を教会から排除するという行為も正当化される。もちろん、そうしたカルトの人たちの魂のためにも祈らなければならないのはもちろんである。

④教会の内紛・亀裂にカルトは乗じてくる。教会の中では寛容の心を保ち平安の裡にいるべきだ。
当然ながら、教会の内紛や諸問題が存在するというのは好ましい状況ではない。しかし、多くの教会がそうした問題とは無縁ではないのは確かだ。だからといって問題を放置しておくべきではない。オカブの教会も、教会内に以前からあった問題にカルトが乗じて侵入してきた経緯がある。そのような、事態を未然に防ぐためにも、日常、教会員同士、寛容の心で接し、教会内を平安に保っておかねばならない。

⑤カルト問題で教会が分裂したら、敵対するものと徹底的に闘え。
常識的に考えて、乗っ取りカルトが教会に侵入してきたら、教会が一致団結して対抗するというのが当たり前の構図であろう。しかし、オカブの教会ではそうではなかったし、また他の乗っ取りカルトに侵入された教会もそうではない事例が多いという。危機感を抱く信徒に対して、牧師があまりにも楽観的で問題を深刻化し、致命的な事態に至ることも多いという。オカブの教会でも似たようなケースだった。反カルト派と親カルト派で、教会員と役員会が真っ二つに割れた。そうした場合、親カルト派とは徹底的に闘う覚悟が必要である。状況によっては、親カルト派をカルトともに追放するくらいの覚悟も必要になってくるだろう。ただ、「徹底的に闘え」といっても、熱い戦いを始終、挑めというのではない。時に、懐柔したり、妥協したり、同意する素振りを見せたり・・・・まさに、蛇のように敏く鳩のように従順に、を地でいかなければならない。また、そもそも、そのような反カルト派、親カルト派の分裂の構図を作らないためにも、④で述べたように、日常、教会を平安に保たなければならない。

⑥情報は徹底的に収集せよ。しかし、ネットには具体的な情報があまりにも少ない。
乗っ取りカルトとの闘いは情報戦である。まず、一般的なカルト対策の書籍、ネット上での情報、また、相手がメジャーなカルトであれば、その組織が出している書籍など、ありとあらゆる情報を収集する必要がある。専門家に相談したから、情報は専門家が持っているだろう、あるいは情報収集は専門家に任せておけばよい、などと考えてはいけない。先にも述べたが、『新天地』などの「老舗」の乗っ取り集団ならいざ知らず、専門家は案外、最新のカルト情報に疎いものである。情報は、当事者であるあなたが集めなくてはならない。結局、乗っ取りカルトとの闘いは、相手が乗っ取りカルトであるという「証拠」を掴めば勝ちで、ゲームオーバーである。しかし、その「証拠」を示す具体的な情報がネット上ではあまりにも少ないのである。端的に言えば、過去に、乗っ取りカルトの被害を受けた教会名や、問題のケースの情報がネット上には皆無といってよい。だからといって、ネット情報を軽んじていいと言っているのではなく、ネットにも有益な情報は多い。ただ、仮に被害を受けてカルトと戦っている教会にとって決定打となる情報がないのである。法令に触れない限り、勇気をもって情報を公開してくれる教会や個人が待たれる。

⑦神第一とすること。
オカブの教会を襲った乗っ取りカルトは非常にヒューマニスティックな趣旨を掲げる、しかも公的な信用の置けそうな団体・組織(2団体も!)を後ろに背負っていた。
またカルトの個々人もそのようなヒューマニスティックな(ある意味偽善的な)態度を装っていた。
こういうものに人間は弱い。
オカブの教会は牧師や役員がまんまとこれに騙され、それどころか相談を持ち掛けた教団のカルト対策の専門家までもが騙された。
人間誰しも情にほだされる面はあるが、ここで考えてほしい。
我々が依って頼むのは神の意思の裁定であって、人間的な情念や安っぽいヒューマニズムではない。
そういう意味で教会の牧師も教団のカルトの専門家(牧師)も聖職者失格といえよう。
我々はカルトに直面した場合に限らず、絶えず神を第一に置かねばならない。
でなければ自ずとカルトにも足を掬われよう。
また、こうした人間の弱点を突くカルトの巧妙な手段にも十分に注意しなければならない。
これは我々の信仰の「隙」でもあるのだ。

⑧結局、教会存続のための戦いである。
乗っ取りカルトとの闘いは、教会や教会員を疲弊させ、教勢を著しく削ぐことが多い。ここで、教会員が疲れ果て、教会を離れるようになっては、元の木阿弥である。乗っ取りカルトとの闘いは教会存続のための戦いである。教会が発展し、大いに伝道の器として用いられなければ意味がない。オカブの教会のように、一旦はカルトの魔手から逃れても、教会の再建という課題が待っている。ここで、教会員が力を合わせて、教会を盛り立て、伝道の業に励むことこそ真の乗っ取りカルトとの闘いに意味があった結果といえる。カルトは去ったが教会が廃れてしまっては全く意味がない。要は、仮にカルトが去った後に、信徒の教会に対する姿勢が、カルトとの闘いの締めくくりであり、そこで教会と信徒の真価が問われることになる。主の御心に従って、キリストの器官である教会を強め、自ら教会のために奉仕する決意が重要である。「進め主イエスの兵士らよ。見よ十字架は前に行く!」

朝明けて見上げる空に燕見ゆ   素閑

 


やっと礼拝を休めた!

2017-04-23 13:49:36 | 宗教

今日は、日曜日。
本来なら教会の礼拝なのだが、やっとサボれた。
この一年というものカルト対策やら、期末の教会会計の決算の数字合わせに追われ、絶対休めなかったのだ。
先週の金曜から土曜にかけては、夜中の3時まで、教会で教会会計の数字合わせをやっていた。 
今日くらいサボっちゃえと、礼拝に行かなかった。
キリスト教会、特にプロテスタントは日曜日の礼拝出席にうるさい。
近年になって、教会離れのトレンドが顕著になってくると、一段と礼拝出席にうるさくなってくる。
教会の中には、週報に「聖日厳守」などと物騒な字を刷り込んであるところもある。
それで、ますます人が離れていくことになる。
まことに愚かなことだと思う。
今日は行く春の麗らかな春の日の下、思い切り自分の休日を楽しんだ。
たまにはこういうことがあっても良いと思う。
安息日は人のためにあるのだから・・・

わが園に光満ちたり春行きぬ   素閑 



イースターおめでとう!Happy Easter!

2017-04-16 20:31:07 | 宗教

今日はイースター(復活祭)である。
では、毎年、4月16日がイースターかというとそうではない。
面倒くさいことだが、イースターとは春分の日から最初の満月の直後の日曜日がその日に当たる。
だから、イースターは毎年日曜日である。
キリストが金曜日に十字架にかかり、3日目の日曜日に甦ったことを記念する祭りである。
しかし、春にこの祭りをやることに、なんらキリスト教側の歴史的根拠はない。クリスマスがそうであるように、キリストの復活が春とも冬とも聖書には書いていないからである。まぁ、宜しい。
日曜日であるから、当然、教会へ行った。
そして、奏楽の補助として、前奏のバッハBWV249『イースターオラトリオ』のテーマをフルートで吹いた。
讃美歌のテーマも吹いた。
うちの教会はイースターは召天永眠者記念礼拝である。遺族がこの日ばかりは教会に押し掛けた。このことに対する文句は以前にもいろいろ、さんざん書いた。
礼拝の後、愛餐会があった。持ち寄りのポットラックである。 
その後、大変有り難いが、大変苦痛な、大量の献金の会計処理である。
どっと疲れた。
しかしカルトのいないイースターのなんと晴れ晴れしたことか!
神に感謝しよう!

芋と飯食うて祝えや復活祭   素閑 


クリスマスですね。カルトが支配する教会と礼拝

2016-12-25 21:31:32 | 宗教

今年は24日の燭火礼拝に続いて翌日の25日が日曜日に当たり、クリスマス礼拝である。
クリスマス・イブが過ぎたというのに、そこそこの人数が来会した。
礼拝はいつもの、牧師のとってつけたような異質のものを受け入れなさいという趣旨の、要はカルトを受け入れなさいという内容の、実にくだらない説教。
礼拝の後は、ティーパーティーが催されたが、ここでもカルトの連中が仕切っている。
この連中とバックにいる組織は教会を乗っ取ることが誰の目に見ても明々白々なのにも関わらず、牧師と一部役員連中はサタンに魂を売ったのか、そもそも頭にお豆腐が詰まっているのか知らないが、ともかく狂気の沙汰である。
パーティーには出ないで、会計作業に取り組んでいた。罪人と飲み食いするのはなんら問題ないが、カルトとなると話が別である。
呪われよ、聖霊を冒涜する者ら。
家に帰って、かーたんがケンタッキーを中心とするクリスマス・ディナーを用意してくれた。
ワインを開けた。オーストリアワインである。セクト(スパークリングである)エステルハージ・ブラン・ド・ノワール。大変結構。
明日は、エルさんと信州旅行である。
カルトと旅行とで興奮して眠れない夜だ。

降誕の夜に妻子らの笑顔かな   素閑


 


メリー・クリスマス!カルトに囲まれた24日燭火礼拝

2016-12-24 23:55:31 | 宗教

今日はクリスマス・イブ。
日本中の、いや世界中のほとんどの教会では、夜に燭火礼拝(キャンドル・ライト・サービス)がもたれる。 
オカブもかーたんもこのキャンドルライトサービスの企画・演出・進行を受け持った。
しかし、カルトに囲まれた燭火礼拝であった。
このような、異常な状況を許している、というか自ら歓迎してカルトに阿っている牧師及び一部役員を神は決して赦すことはないであろう。
礼拝の前奏では、バッハの『羊は安らかに草を食む』をかーたんのオルガン伴奏で、フルートのテーマを吹いた。苦々しい思いしかない。
牧師の説教も白々しい。
怒りがこみ上げるクリスマス・イブであった。
しかし、これが本来のクリスマスのありようであるかもしれない。
困難、苦悩、苦痛のなかにあってこそ、本来のクリスマスの本質がわかるものともいえよう。
カルトたちが管を巻き、阿保な教会員がお追従している打ち上げを無視して、席上献金の会計処理を済まし、さっさと、かーたんと教会を出た。
まさに、この教会こそ悪魔の牢屋である。
来年こそはカルトと対決すべき年である。
決意も新たに、かーたんと空いていた茶沢通りのイタリアンに入った。
クリスマスに合わせてというか、仔羊のステーキを取った。
その前にモエ・エ・シャンドンのシャンパーニュで乾杯。
その前に、前菜三種盛り。
その前にフィッシュ&チップス。
カールスバーグをグラスで三杯。
グラッパで締め。
寒空の夜道を自転車を押して帰宅した。

悩めける降誕の夜の痛飲や   素閑



 


カルトに侵された礼拝

2016-08-28 18:15:23 | 宗教

今日は日曜日である。
当然礼拝に行った。
またまた気の重い礼拝で会った。
カルトのメンバーの一人が神学校に行くことを決め、そのことを牧師や主要役員に触れ回っている。
ある教団の公認神学校で、先週、奉仕説教に来た引退牧師がその神学校の偉いサンで、このカルトはその偉いサンとコネを付けて面談までしている。
メンバーを神学校に入れ、牧師の後釜に据えて教会を乗っ取るのは、教会乗っ取り専門集団『新天地』の常套手段である。
今回、我が教会に仕掛けてきたのは『新天地』ではない。『統一教会』の分派である。統一教会も文鮮明の死後、組織のタガが緩んで様々な分裂が生じていると伝えられているが、最近は素人を勧誘して霊感商法をやらせることから、既存の教会を乗っ取って財政基盤にするケースが増えたそうだ。今回の動きもその一環であることは間違いない。
しかし、牧師も他の役員も危機感を抱くどころか、カルトの神学校進学を積極的に後押しするそうだ。
はっきり言って頭がおかしい。でなければ、カルトに既に洗脳されているとしか思えない。
教会の絶体絶命の危機である。しかしオカブは断固闘うつもりでいる。
そんなこんなでお腹が空いて、またまたすずらん通りの『きゃんどる』にランチに行った。
ビールをジョッキで飲んで憂さ晴らし。ビールは苦かった。

法師蝉虚しさの果て知らせけり   素閑

 

 


日曜の午後『きゃんどる』でランチ

2016-08-14 15:55:22 | 宗教

今日は日曜日。教会の日である。
誰が日曜日=教会などと決めたのであろう。
今日もある問題で気の重い礼拝を過ごした。
「ある問題」とはぶっちゃけ、カルトの問題である。
教会がカルトに侵されかかっている。
それを教会が一致団結して闘って排除しようというのなら話は簡単だ。
役員会の大半、そして牧師までもがカルトのシンパなのである。カルトから教会を守ろうとする信徒を信徒が攻撃するのだから話にならない。
この問題については一部信徒が立ち上がって追及したのだが、お茶を濁すような対応しかなされず、いまだに燻っている。
カルト問題の専門家と称する牧師とも会合を持ったが、全く不勉強極まりない。問題を全く把握していない。教会を侵食しているカルトがどんな団体であるかの知識も持ち合わせていないのには唖然とした。
はっきり言って、教会がカルトに侵食(そもそも、教会がカルトに乗っ取られるというケースは従来『新天地』というグループ以外はあまりなかったのだが、最近は幾つかのカルトが教会乗っ取りを「専業」としだしたらしい。)されるのに、気付いたら信徒が立ち上がって対抗するしかない。そして、その際はネットの情報が一番頼りになる。自称「専門家」に相談しても失望させられるケースが多い。いずれにせよ、カルトは執拗で巧妙である。自称「専門家」は経験値に頼り過ぎていて、最新のカルトの動向を全く把握していない。その点ネットには多様な情報が存在する。
そんなこんなで、気の重い礼拝をさっさと済ませて、近くの『きゃんどる』にランチに行った。
ビールも飲んで気晴らしだあ!!!!!!!!!!

筋雲と清き水あり休暇果つ   素閑 


棕櫚の日曜日

2016-03-20 08:36:26 | 宗教

今日は三連休の中日の日曜日である。
そしてお彼岸のお中日でもある。
お寺の檀家は、其々のお寺にお萩をもってお墓参りに行くことであろう。
しかし、キリスト教会にとっては、今日はイースター一週間前の日曜日、すなわち『棕櫚の聖日』である。
この日、イエス・キリストは驢馬に乗ってイェルサレムに入城した。それを民衆は、ダヴィデの再来であると喜びつつ、ナツメヤシの枝を振って、「ホサナ・ホサナ」と叫んで迎えた。民衆の持っていたナツメヤシがいつの間にか棕櫚に変わり、ウィーンで見た棕櫚の主日のミサでは、司祭が猫柳の枝を持っていた。しかし、プロテスタントをはじめとする一般の教会の礼拝やミサで、聖職者が植物の葉を持っている風景は、日本では見られない。
とまれ、イースターが移動祝祭日なので、この日も、年によって日付が変わる。毎年、彼岸の中日、春分の日が棕櫚の主日ということではない。
今日は、棕櫚の聖日に加えて、教会では総会という、気の重いものもある。
これから、教会に向かう。
では、皆さん、良い日曜日を・・・

思い切り猫は伸びする受難週   素閑