6月29日のエントリーで集団的自衛権について述べたが今日はこれを若干補足しておきたい。
礒崎陽輔首相補佐官が、今次安保法制は法的安定性とは関係ないと発言して物議を醸している。
野党は辞任を要求しているようだ。
しかし、集団的自衛権に関わる安保法制が、高度に政治的なため、憲法の制約に馴染まず、統治行為に該当するというなら、それはその通りである。国家安全保障上の問題より法律論議を優先させるというのは、自民党からの、違憲論憲法学者への口撃がいかに見苦しいとはいえ、冷静に論を組み立てていけば、まったく本末転倒の国家主権を無視した愚論であることは明白だ。
しかし、安保法制が合憲かというと、それには反対だ。安保法制、また集団的自衛権(個別的自衛権、否交戦権も)日本国憲法に違反しているというのがオカブの考えだ。その観点からオカブは憲法9条に関して峻別不能説に立つ。武力の放棄、交戦権の放棄は憲法九条の文言から明らかであり、これを否定することには無理がある。
これについて、安倍首相があくまで安保法制について合憲だと強弁するのは、なんの根拠があってのことか知らないが、あまりにも合理性を欠いている。
日本国憲法はその制定の発端となったマッカーサー・ノートの段階で、日本に絶対的な意味であらゆる武力行使を放棄させようという、立法趣旨が明確だ。それは曖昧模糊とした第二項の芦田修正を経ても覆らない。
現在の安保法制の賛成論者の主張は、そもそも自衛権は国家に天賦に与えられた自然権であり、その延長である集団的自衛権は、国連憲章で認められた国際法上の要請であるとするものである。しかし、日本国憲法は、自然法的な概念を徹底的に排除した、実定法主義をとっていることを強く主張したい。このことは、つまり、憲法に規定されていないところのものはすべて無効とする主義・主張だ。だから、自衛権が自然権であろうと、日本国憲法に規定されていない・・・逆に9条で放棄を謳われているのだから、日本には自衛権は存在しないことになる。
しかし、マッカーサーの当初の意図に反して、東西冷戦、朝鮮戦争など国際情勢の変化は風雲急を告げるようになり、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」という大前提が崩れ去ったのである。本来であればこの時点で本格的な改憲論議が行われて当然であった。しかし、当時は残念ながら「吉田ドクトリン」の呪縛の中に日本政界は包まれていた。そして今日に至るまで改憲は行われていない。
ところが現状の国際情勢の激変に伴い、中国の脅威が高まるにつれて、日本の防衛を考えるうえで、個別的自衛権では対応できない現実があり、実質的集団的自衛権の行使である日米安保条約による日米同盟による安全保障を整備する必要がある。これは、日本国民の安全を守るために不可欠である。
また、PKOに代表される国際貢献、またホルムズ海峡の安全確保、また極端な例では、同盟国が攻撃を受けた場合の協同作戦による敵国への攻撃に見られる日本から見ての対外的集団的自衛権の行使は、上記の日本の集団的自衛権による防衛を確保するうえで不可欠である。ここで重要なのは、あくまでも日本国の安全保障、日本国民の生命・安全を守ることが最優先目的であるということである。これは存立危機事態の新三要件に謳われているとおりである。
その結果として、片務的集団自衛である日米安保条約の扱いが今後問題となるのではないか?日米安保改訂までも視野に入れた今回の安保法制議論であるかどうか気になることである。
だから、純粋に法的議論の観点に立てば武力の保持の自衛隊も、交戦権も、自衛権も、もちろん集団的自衛権も違憲のなかで、どうやって国家安全保障を確立するかが最大の課題となる。
だから、安倍首相が今国会でこれら法案を成立させる過程で、これらは本来は「違憲」であるが、改憲が困難な現状に照らせば、国家主権と国民の安全を守るために必要不可欠であることを、丁寧に説明すべきであった。しかし、これに関しても、彼は改憲が困難であるから、解釈改憲を行ったのではないと、国民を煙にまいている。
安倍政権の実行力と安定性は現在の日本の財産なのであるから、一つ、安倍首相が正論で事態に取り組まない姿勢は惜しまれてならない。
やがて、この法案成立後に必ずや違憲訴訟が起こされるであろう。そして最高裁は「統治行為論」の裁決を下すであろうことは明白だ。
安倍政権は堂々としていればいいのである。
しかし現在のところ、そのプロセスや説明の仕方がご都合主義に流れていて実に残念だ。
安倍政権には、原理・原則を貫くことを期待したい。
下の写真は、昨日のおかずの、生ハム・メロン、ほうれん草のキッシュ、サーモンとブロッコリーのクリーム煮だ。かーたんが作ってくれた。平和な食卓は国の安全と不可分である。
街白く炎暑の家路なお遠し 素閑