今日から当面の間ブログ休みます。
これまで読んでいただいた方、応援していただいた方々にお礼申し上げます。
再出発は日記・エッセイ風の違うスタイルのブログにしたいと思います。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
中国と言う国に行ったことがない。
日本ははるか古代から中国と密接な関係がある。
しかし日本人の意識の中には中国の占める割合は非常に少ないのではないか?
中華料理、漢方薬、三国志。あとは現代中国の躍進。
中国の文化はさすが歴史の長い国だけに深遠である。
文学にも、絵画にも、陶芸にも、宗教にも、多くの偉業が中国でなされた。
米と中国の間で貿易戦争が勃発し結果チャイナショックの危機が叫ばれている。
結果は分からない。
しかし中国経済がクラッシュしても、中国のプレゼンスは国際的に薄れることはないだろう。
たとえ経済大国、軍事大国の中国が傾いても文化大国(過去の文化)の中国は残る。
一度、中国に行ってみたい。
不可思議や木蓮は咲き玉の風 素閑
木蓮の光の庭にただ悔やみ 素閑
木蓮にさしかかる雨袖濡らし 素閑
地の白き少女たたずむもくれんげ 素閑
草庵も人気のなしやもくれんげ 素閑
残照の山手に恋ゆるはくれんげ 素閑
谷戸を出て詣る尼寺はくれんげ 素閑
放浪の女物書きはくれんげ 素閑
垣越えて茶の香漂うはくれんげ 素閑
木蓮や葷酒山門入るはなし 素閑
茜さす木蓮の庭堂守りや 素閑
高齢社会では経済や企業活動も滞留すれば発想も実に保守的・頑迷になっていく。
こういう時こそ若い人が社会全体の閉塞感や頑固な発想を打ち破って欲しいと思うのだが、そもそも、その若い人たちの数が少ないのだから困ったことだ。
しかも数少ない若い人たちの発想自体が実に爺むさい老人の発想の影響を受けていたり、その延長だから救えない。
今話題の「中二女子」もその実在の有無は別として、発想自体、実に老人じみた道徳論・べき論である。
かつて世の中を変革した、若人の斬新でぶっとんだ創造性が見られない。
時代を越えた若人の出現を今か今かと待っている。
そうすれば役立たずのこの老人も余計なことをブログで語らずに済む。
田の畔の草のむぐらや水ぬるむ 素閑
水面より照り返す日のぬるみけり 素閑
水ぬるむ女学生らのもの想ひ 素閑
去年の旅水ぬるむころ秩父路や 素閑
水ぬるむ音高く雨戸開け放つ 素閑
抗へぬ世に抗ふや水ぬるむ 素閑
朝夕に想ふこと果て水ぬるむ 素閑
時を経て細る命や水ぬるむ 素閑
芽吹く木を揺らす山風水ぬるむ 素閑
遠き山まだ白くあり水ぬるむ 素閑
葉も失せて細き梢や水ぬるむ 素閑
安ければ安いほどいい。品質は高ければ高いほどいい。機能は高ければ高いほどいい。
買い物をする立場からすれば当然である。
しかし、こういうディマンドサイドの過剰な要求はマクロ的に経済を疲弊させる。
昔はボロな商品でも結構な値段で売っていた。
しかし、そこにも需要はあった。
貧乏でなおかつ物のない時代だったからだ。
それで経済も潤ったし、成長もした。
現在の日本の経済の滞留は少子高齢化や財政赤字高度成長を経て全体が衰退期に入っているなど。様々な理由が考えらるだろうが、一面ではこうしたディマンドサイドの過剰な要求に対して、サプライサイドが疲弊してしまった結果とも受け取れる。
なぜコンビニを24時間営業にしなければならないのか?
確かに、そこには需要があるだろう。
しかし、その需要は「過剰な要求」である。
「安い、旨い、早い」は確かに需要に応えたであろうが、逆に牛丼業界を疲弊させてしまった。
欲求は、ほどほどのところで抑えておくのが良い。
そこそこ良いものをそこそこの値段で買うことに満足しなければ、市場は限界的競争に陥り、勝者のない世界になってしまう。
まずは「足るを知る」ことである。
啓蟄や獄の中にてはや三年 素閑
啓蟄や荷役の男の太き腕 素閑
啓蟄に不遇の末のふて寝かな 素閑
山越へて里にいでむと啓蟄や 素閑
朝月も眺めて野良へ啓蟄や 素閑
おざなりに並ぶ地蔵の啓蟄や 素閑
啓蟄にわだち新しぬかる路 素閑
箱根路の啓蟄の空清きかな 素閑
啓蟄やクレオソートをどぶに撒き 素閑
嵯峨の畑啓蟄の日のおだやかさ 素閑
啓蟄や菜をば商ふ老婆かな 素閑
にわか仕立ての論と言うのはある。
時事を語ったり、時流におもねったりと理由は様々だが、真理から外れていることは共通している。
これが当然だが「ジャーナリズム」と称する紙面に多い。
特に「社会の木鐸」をもって任ずる新聞の紙面は、目を覆うばかりのものだ。
真理や、寸鉄人を刺す文章と言うものは、それ以前に万物の恒久の摂理に思いをいたして、説を呻吟しなければ生まれない。
準備不足の、あるいは結論ありきの記事が多い事には驚くまでもなく、当然と言える。
今日起こった出来事を今日論評することは、確かに社会には求められている要請だろうが、こうした「ジャーナリズム」の在り方は、論を曲げ、世を偽る。
新聞離れが著しいという。
当然の結果である。
世の「ジャーナリスト」はにわか仕立ての論を捨て、真摯に考え抜き悩み抜いた論説を展開してほしい。
薔薇の芽や毛の帽もまた仕舞うべき 素閑
薔薇芽立ついかにも遠き浜の郷 素閑
芽の立った薔薇の園への二老人 素閑
薔薇芽立ついかにもやさしき世の中や 素閑
雨上がり薔薇の芽光るあしたかな 素閑
境涯を嘆くもやさし薔薇の芽や 素閑
弟妹を連れて郷へと薔薇の芽や 素閑
薔薇の芽や破れ衣の妻町へ 素閑
薔薇の芽や佳人の面影七つ子に 素閑
解いてなおもつれる糸や薔薇芽立つ 素閑
繚乱と咲くよりもよし薔薇の芽や 素閑
多文化共生が叫ばれる一方で、伝統文化の継承も大きく喧伝されている。
国際派と民族派、グローバリストとアンチグローバリストの対立のような観を呈している。
どちらもどうでもいい事だ。
文化の混成や純化は、その時の時勢によって自然と決まり、それは当初は一部の人には居心地が悪いが、やがては慣れと必然によって落ち着くものだ。
だから人為的に多文化共生にしようとか、伝統文化を継承しようとか試みないほうが良い。
自然に任せておくのが一番だ。
そして、それが環境に適応する一番の方法だ。
カレーライスやかつ丼を考案してきた日本人には分かるはずだ。
不自然で環境に適応しない文化は自然淘汰されていく。
そうむきになりなさんなと申し上げたい。
地にありし牡丹の芽から大息吹 素閑
降霜も今や昔の牡丹の芽 素閑
木戸口を通って気になる牡丹の芽 素閑
牡丹の芽緑青の如苔の庭 素閑
長谷の寺牡丹の芽を見し浜伝ひ 素閑
薄き雲地を覆いたり牡丹の芽 素閑
孝子亡くただ荒れる庭牡丹の芽 素閑
緋扇を露地に撒けるや牡丹の芽 素閑
書を読みて半ば途切れて牡丹の芽 素閑
庭の外四方荒れ土牡丹の芽 素閑
茶碗置き庭下駄探し牡丹の芽 素閑
オカブの教会に対する姿勢をはっきりさせておきたい。
オカブは洗礼を受けた「クリスチャン」である。
そしてオカブは「反教会」ではない。
しかし教会の世俗性、因習化、形式性には反感を持っている。
それが如実に表れているのは「礼拝」であろう。
プロテスタントの『礼拝』は、かつてプロテスタントがカトリックのミサに問題意識を抱いたように世俗化、因習化、形式化している。
神との対話、格闘である祈りのみをもって、主につながっていく覚悟である。
雛の宵破れ衣も華やぎて 素閑
春時雨雛にことよせ酒となり 素閑
初雛の時は経にけり老ゆる身や 素閑
三代の雛を祭るや古屋敷 素閑
笄も取れて侘しや古き雛 素閑
雛の間に童押し入り戯れぬ 素閑
三官女厳かなるはとりわけて 素閑
雛一つ一つを取り出す歳ふりぬ 素閑
雛祭り納めぬパリのお嬢さん 素閑
雛の膳菜の汁のみが苦しかな 素閑
やっと持つ饗応の席雛の宵 素閑
雛にては二人つひじのこひの影 素閑
芽が吹きぬ雛に捧げむうちの庭 素閑
酒量が増えている。
なにか自分でストレスがあるのかと問えば、あると言えばある、ないと言えばない、だ。
ただ、いずれにせよ健康には良くない。
こんな老体は早くくたばってしまえとも自分でも思うのだが、下手な病気にかかって家族に迷惑をかけるのもなんだ。
癌で死ぬのが一番いいという内容の医者が書いた本が一時売れていると聞いたが、癌は確かに十分な終活をする時間は持てるが、それまでが厄介だ。
若きシーザーが友人と、どんな死に方が良いかと議論していて「とっさの死」と答えたそうだ。
これはプルトゥルクスにも書かれている。
オカブもとっさの死がいい。
酒を飲んで脳の血管でも切れてくれればいいのにと思うことがある。
いや、とんでもない場で縁起でもない話を披露した。
まあ安らかに人に迷惑をかけず世を去っていくのが一番良い。
近き月遠き星取り白魚や 素閑
朝ぼらけしらうを蒸すや能登の浜 素閑
飯に炊きしらうをしをの香を運ぶ 素閑
おおむぐら白魚の飯朝起きて 素閑
鍋敷きに軽く小さき白魚汁 素閑
白魚に鳥も過ごさむ午後の刻 素閑
白魚や相模の海の波凪ぎて 素閑
しらうをの哲人の貌海深し 素閑
網よりももれたしらうをただ一つ 素閑
彩りもいらずしらうをただ白く 素閑
しらうをやただ来しき方振り返り 素閑
今「権威」がなくなっている。
ネットの発達によって、今まで「権威」と思われていたものの化けの皮が次々と剥がされている。
政治家も大学者も大社長も大作家も大論説者も新聞もテレビも、あるいはテンノーヘイカも今や権威と言う面からみれば形無しである。
大衆は、ただ「権威」と称するだけでは全く共感することも従うことも無い。
昔は、例えば政治家のことを誰もが「リーダー」と考えていた。
しかし、今では「政治家」は大衆の「手駒」である。
ましてや尊敬の対象などではない。
政治家が大衆を操縦できるなどと考えたら大間違いである。
できるとすれば為にするデマゴーグの情報を流布して大衆を扇動することくらいである。
社会に影響力のある者は表から覆い隠されている。
もっとも、ネットの情報はそういうものの仮面をはぎ取るのも得意なのだが・・・
しかし、この手の策術には現代社会の陥りやすい罠が待っている。
一方の方向に傾きだすとそれが無抵抗のままに一気にその方向に走り出すからだ。
これは第三者が影響力を行使すれば防止できるということではない。
大衆、一人一人が、現代の状況はそのような危険をはらんでいるということを自覚して行動するしか対策はない。
下萌えぬ長くも短き生き死にか 素閑
みちのくの水の下にも下萌えぬ 素閑
名も知れぬ人の塚にも下萌えぬ 素閑
下萌えぬ齢は六十路を越えにけり 素閑
下萌えぬ焼け焦げし町村の跡 素閑
草萌えぬ遠くに鐘の高き塔 素閑
下萌えぬ鰊の蕎麦の茶屋の前 素閑
刻々と春の草には時が来し 素閑
下萌えぬ泉と原と浅黄色 素閑
村長の孫は都へ下萌えぬ 素閑
ながながと寝そべる猫や下萌えぬ 素閑
暮れ時になると考える。
今日は何をなしたのかと。
別に人様に言えるほどのことはやっていない。
大抵、無為に過ごしている。
人に使われ、組織に属していた時はこんなことは考えなかった。
考える余裕がなかったというほうが正しい。
時間と山のような仕事に追いまくられ、成果として一日、何をやり終えたかなど考える暇がなかった。
もちろんクォータだのヒストグラムは毎日意識して、憂鬱な気分になっていた。
しかしだからと言ってそれを達成したとしても、どうしてもやったという実感がわかないのである。
晴れて自由の身となった今は、同じく虚無感と徒労感にさいなまれている。
想えば無為徒食の人生だったとつくづく思う。
花菜漬け飯に熱き茶かけ注ぎ 素閑
花菜漬け雨の小僧が土間の口 素閑
醒めた酒花菜の漬けもの齧りたり 素閑
花菜漬け野の鳥たちもささやけり 素閑
花菜漬けくさむら低く鳥飛べり 素閑
嵯峨の宿茶飯に豆腐花菜漬け 素閑
花菜漬け遊山を帰りせせらぎや 素閑
一平も京子もそろひ花菜漬け 素閑
妻よそう飯につけられ花菜漬け 素閑
花菜漬け師の世を去りてはや三年 素閑
花菜漬け会うも別れもけふのこと 素閑
花菜漬け八つに読みし物語 素閑