俳句の季語には不思議なものがある。
もうとっくに廃れてこの世に存在しないものでも、立派に現代の季語として扱われ、歳時記にも載っているものも、たくさんある。
夏の季語だが「竹婦人」「飯饐える」などは今の一般の人には何のことかさっぱり分からないだろう。
まあ、昔こうした季語を詠み込んだお歴々に敬意を表するのと、昔を懐古して、あるいは浮世離れした前時代的なものを、かえって現代的な感覚で詠もうという前衛的な作家のために残されているものと思うことにしている。
この秋の季語の「虫売り」もその一つである。
カブトムシならデパートで売っている。夏休みの宿題に追われた子供が、今頃、目の色を変えて、デパートに押し寄せていることだろう。
しかし俳句の「虫売り」はカブトムシを売らない。
「虫売り」が売るのは秋の「啼く」虫である。
オカブも、いい歳になるが「虫売り」など見たことがない。
かろうじて小泉八雲の短編『虫の音楽家』で、その昔のおぼろげな姿を見聞するのみである。
それによると「虫売り」は明治時代には立派な稼業として成り立っていたらしい。
主に昔は田園だった葛飾辺りから、東京の都心・下町に来て虫を商っていた。
今、すでに八雲の本は手元にないので、曖昧な記憶しかないのだが、虫ごとの値段の相場と時期によるその移り変わりが、巧みな画家による精緻な絵とともに詳しく書かれていたと思った。
それによると鈴虫などのありふれた虫は安く、轡虫、馬追などが高価だったような気がする。
虫売りは行商である。写真にあるような荷を背負って街々を売り歩いたことだろう。
そういえば、オカブが幼い頃、今はなくなった太子堂の縁日で、アセチレン灯に照らされた露店が籠に入れられた虫を売っていたような気がする。しかし、そうした虫売りは俳句の虫売りではない。俳句の「虫売り」はあくまで行商の業者である。
ぐずついた天気だ。
通勤するサラリーマンなら満員電車に乗るのが、特に苦痛に思える日だろう。
明治は遠くなりにけり、である。
虫売りや分譲マンション建ち並ぶ 素閑
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