今日は、グッド・フライデー・・・・聖金曜日である。
聖金曜日とはキリストが磔刑に架かって死んだ日とされる。
しかし、毎年、何月何日が聖金曜日と決まっているわけではない。
キリストの復活日、すなわちイースターが春分の日の後の最初の満月の日の直後の日曜日となっている。
これは、早い年だと3月20日、最も遅い年で4月23日になる。
聖金曜日はその直前の金曜日ということになる。
キリストが十字架にかかって三日後に甦ったという話しの基である。
この日、多くのキリスト教国では、国民の祝日になる。
尤も、そういった国では、多くの勤め人が、それ以前からイースター休暇を取って、ヴァカンスに入っているものだが・・・・
ちょっと意外だったのは、インドでも、このグッド・フライデーが祝日であったということだ。
ただし、休む休まないは、夫々の事業所に依って・・・
ただ、ヒンズー教徒が圧倒的に多い国も少数のキリスト教徒に配慮したものとみえる。
この日の夜、日本でも、キリスト教会はキリストの受難を記念して祈祷会が持たれる。
日本では、この時期は、例年は、春たけなわと言ったところだが、春の訪れの遅い西欧などでは、本格的な春の訪れを喜ぶ季節である。
これよりは月の野なれば蕨の香 素閑
ましらとも山いのししの蕨かな 素閑
さわらびや昂然目光る弊衣の士 素閑
蕨とる草のまにまに野の地蔵 素閑
南無阿弥陀となゆる善女わらびかな 素閑
蕨の野端に憩える鉄工夫 素閑
軒の端の雨のわらびや野良のやど 素閑
わらびとる草の笛などなるは無し 素閑
庚申の塚のわらびと干した飯 素閑
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昨日、秩父から帰ってきた。
帰りに、長瀞と川越に寄り、かーたんはいたく川越の蔵造の街並みに感動していた模様。
詳細は、週末に、旅行記にまとめる予定。
とても楽しい旅だった。
友と別れ陽炎の路重き荷駄 素閑
陽炎の方を向く犬憂きこころ 素閑
陽炎に冷たき清水の甘きかな 素閑
聖書読み祈り陽炎聖句集 素閑
陽炎や山尽き平野始まりぬ 素閑
山路来て一休みする陽炎や 素閑
石温き麦の畑の陽炎や 素閑
光芒やもののふどもも陽炎に 素閑
竹藪の風も仔細に陽炎や 素閑
明日秩父より帰宅する。
好天に恵まれ、今日は暑いくらいだったが、とにかく暑いのには閉口した。
明日は長瀞でも行って涼しんで来ようと思う。
取り敢えず、今日のところは、記念の写真に一枚をお届けすることにしよう。
そして陽気外れを九句。
夜をあかしあした春をば慈しみ 素閑
月のぼり美酒に春差す瀬音かな 素閑
垣越えて幼馴染に春寄越す 素閑
大空に駆け巡りけり春の息 素閑
飯炊いて湯気拭いけり春の朝 素閑
沖の舟春を運びて漕ぎよせり 素閑
朝ぼらけ柔道場に春さかり 素閑
バスきたる舞える埃や春の午後 素閑
春そよぎ翠となりて流れゆく 素閑
良寛和尚の嫌いなもの。
と言えば、大半の方が、ははぁんと肯くであろう。
然れば、料理人の料理、歌詠みの歌、書家の書とされている。
形式と習慣とに嵌った、通り一遍のものを嫌われたものと思われる。
そうとすると、良寛和尚は、どこまでも突き詰めて、創造的なものを追求することを求められたのか?
これは大変なことになった!
うかうかはしていられない。
まずは、自らの作句を顧みなければ!
猫もまた想ひにふけるや長閑かな 素閑
客飽きて噺の不味き長閑なり 素閑
長閑さや座敷のひやかぜそろりとも 素閑
きつい嫁餅を頬張る長閑さよ 素閑
うたかたの恋に憧がる長閑さや 素閑
からす啼き友を呼びたり長閑かな 素閑
昼知らすサイレン揺れて長閑かな 素閑
古はがき埃にまみれ長閑さよ 素閑
明日から二泊三日で秩父の鉱泉にかーたんと行ってくる。
久し振りの夫婦旅行だ。
春たけなわの秩父路とは、考えただけでわくわくする。
渓流を見下ろす湯浴み、古寺巡礼、秩父の蕎麦、桜の見頃、荒川の渓谷・・・楽しみの期待は尽きない。
ただ、ご両人とも、あまり体調が良くないので、そこのところは無理をしないように気を付ける。
では、行ってきます。
沈丁花まだ寒きことののしりて 素閑
沈丁花かほりを病女にたとえたり 素閑
沈丁花露地に花の無きならば 素閑
沈丁花その場限りの涙かな 素閑
沈丁花なにゆへ詩など詠みぬるか 素閑
沈丁花こともなげなく恋知らせ 素閑
沈丁花流浪の果ての異邦人 素閑
沈丁花今日を限りに離郷せむ 素閑
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かーたんと花見に行ってきた。
花見といっても、北澤川緑道を200mほど歩き、せせらぎ公園で弁当を開き、ビールを飲んだだけ。
ものの30分ほどである。
ただ、今年も桜が見れた、というほのやかな感慨が湧いてくるのみである。
幼き日桜想へる堤かな 素閑
いかでして墨絵に描かむ桜かな 素閑
今年また弥生の桜みべきかな 素閑
興尽きて人波散るや桜かな 素閑
わずかにも桜に触れて散るをみゆ 素閑
桜散りあまたの魂も天召さる 素閑
憂きことも忘れえずして桜かな 素閑
明日もなき身と知り桜に見入りたり 素閑
この先のいくど見るべき桜かな 素閑
ほのやかに花びらたわむる桜かな 素閑
本ブログは、ホームページ時代も入れると、2006年から12年以上、解説コメントにもある通り、雑多な日常の出来事や、思い付きなどを書き連ねてきた。
それに俳句を交えさせたのが2007年から・・・2008年の1月から全エントリーに俳句を添えてきた。
しかし、その当時は俳句はあくまで「日記」の「添加物」で、更新の頻度も、週に一回がせいぜいだった。
ところが、昨年の夏から、俳句ブログのランキングに参加するようになり、更新もほぼ毎日行うようになった。
しかし、ここに来て、歳のせいもあってか、それも少々しんどくなってきた。
これからは、身の丈に合った、「スローな」内容と更新を行っていきたいと思う。
というわけで、またもやぐーたらな週末を迎えることになる。
草の芽や痩せたる庭に抱擁す 素閑
やまひえて床より眺む草の芽や 素閑
草の芽やぎんざむすめのはやりかな 素閑
草の芽や赤子のあんよ踏みにけり 素閑
チョコレート子らに頒けつつ草の芽や 素閑
草の芽やいずるに遅くおひぼれぬ 素閑
地を覆わん草の芽やぶる富士の雪 素閑
芽の生えぬいずれの千種になりぬるや 素閑
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昨日、知人のソプラノ・リサイタルにかーたんと行って、帰りに「きゃんどる」でディナーを食べてきた。
マスターとママさんと色々な話が尽きなかったが、結局は歳を取るとしんどいね、ということ。
これには、なんとも同意。
本当に、歳をとると、色々なことがままならなくなる。
料理はいつもながら最高!
楽しい時を過ごした。
それだけでは足りず、かーたんとデニーズで苺パフェを梯子してきた。
すさびてもこの身と雪の尽くすとき 素閑
雪みよやすべてはゆめに終わりなむ 素閑
雪果てし明けてあけぼの照りにけり 素閑
酔ひあれてむなし高吟雪つくす 素閑
藪の中笹の葉しげし雪つくす 素閑
雪荒れて滝の如くに降りて果つ 素閑
雪果てし明けの日差しのやはらかし 素閑
荒城とうたひて雪のむなし果て 素閑
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なんと、この季節に朝から雪。
今日は声楽家の知人のコンサートを、かーたんと聴きに行った。
なかなか力のこもった公演だった。
会場は、三茶のホール。
会場も良かった。
公演後、軽いワインパーティーがあった。
図々しくも、そちらにも顔を出し、午後のひと時を過ごした。
雨垂れて湯気の蒸したる彼岸かな 素閑
朝明けて彼岸の燭をそよと消す 素閑
冬過ぎて命尽きぬや彼岸かな 素閑
この道を行けば着くなり彼岸の家 素閑
草の原雀の彼岸の嬉しさや 素閑
三峰を隠す雨雲彼岸かな 素閑
火の恋し春の彼岸となりぬるか 素閑
手はすきぬ彼岸の頃のねぶけかな 素閑
オカブには故郷がない。
あえて言えば今住んでいるところが故郷である。
だから故郷を出でて、何かを成すなどという感覚には乏しい。
この今住む地を離れたのは、新卒で姫路に赴任した5年間だけである。
当初は、さして気にしてはいなかったが、しばらくして猛烈なホームシックに罹った。
再び東京に転勤になったときには、心身共にへとへとだった。
たしかに、この地での、一筋の路地や、建ち並ぶ街並みにも、深い思い入れがある。
もはや、この地を青山の地とするしかない。
しかし、自らの生まれ育ったところというものは、親の懐のようなものである。
つくし野の毀たれかけたかしらいし 素閑
この路を行けば古寺へとつくしかな 素閑
つくし群れ茶色の小瓶の捨ててあり 素閑
猫もまたおもひの果てやつくし野に 素閑
稜々と山巓映えるつくし野の 素閑
山の端の茜の末やつくしかな 素閑
親と子の背をくらべるやつくしんぼ 素閑
山猿も雫に濡れよつくしんぼ 素閑