にわか仕立ての論と言うのはある。
時事を語ったり、時流におもねったりと理由は様々だが、真理から外れていることは共通している。
これが当然だが「ジャーナリズム」と称する紙面に多い。
特に「社会の木鐸」をもって任ずる新聞の紙面は、目を覆うばかりのものだ。
真理や、寸鉄人を刺す文章と言うものは、それ以前に万物の恒久の摂理に思いをいたして、説を呻吟しなければ生まれない。
準備不足の、あるいは結論ありきの記事が多い事には驚くまでもなく、当然と言える。
今日起こった出来事を今日論評することは、確かに社会には求められている要請だろうが、こうした「ジャーナリズム」の在り方は、論を曲げ、世を偽る。
新聞離れが著しいという。
当然の結果である。
世の「ジャーナリスト」はにわか仕立ての論を捨て、真摯に考え抜き悩み抜いた論説を展開してほしい。
薔薇の芽や毛の帽もまた仕舞うべき 素閑
薔薇芽立ついかにも遠き浜の郷 素閑
芽の立った薔薇の園への二老人 素閑
薔薇芽立ついかにもやさしき世の中や 素閑
雨上がり薔薇の芽光るあしたかな 素閑
境涯を嘆くもやさし薔薇の芽や 素閑
弟妹を連れて郷へと薔薇の芽や 素閑
薔薇の芽や破れ衣の妻町へ 素閑
薔薇の芽や佳人の面影七つ子に 素閑
解いてなおもつれる糸や薔薇芽立つ 素閑
繚乱と咲くよりもよし薔薇の芽や 素閑
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