我が家の猫、ムギとジロもすでに満四歳で立派な成猫である。最近は若いときのように活発に運動するようなことは少なくなり、部屋でドテーッとしていることが多くなった。特に、このところ冷え込んでいるので、昼はもっぱら窓辺で日向ぼっこである。活発にオイタをすることはなくなったが近頃、思うことは猫でも人に懐くのだなあということ。特に、もっぱら餌をやっている、かーたんとエルさん(エルさんは、自室に猫の寝場所まで提供している)には甘え通しだ。彼女らが現れるとニャーニャー鳴いて擦り寄ってくる。猫でも情に感ずるところがあるのであろう。下はうちの猫どもの写真である。夜撮ったので、眠そうというか、フラッシュがまぶしいのかあまり可愛く撮れなかったのは残念だ。
ところで、猫が人に懐くということは、かなり高等な認識能力が猫の精神活動に備わっているということだ。すなわち、猫も哲学上の認識の主体に位置づけられてよいという事になる。ただ、猫には「自己」と「他者」の識別がついているかということに疑問は残る。現象学の権威であるフッサールに拠れば、認識主体は「自己」という通俗的概念とは一線を画した「ノエマの核」という観念的概念に集約されることになる。それに基づけば、我々が日常、認識している「自己」という対象も自らによって客体化される。猫においては言語意識に基づいて、「主体」と「客体」の区別はついていないだろう。しかし、時代は下って、ヘーゲルの弁証法的疎外論を展開して、もっとも明確な「実存」の概念を確立したサルトルに拠れば「実存」とは、”pour soi"(対自存在)であり"l'ètre qui n'est pas ce qui l'est, qui est ce qui le n'est pas"(それがあるところのものであらず、あらぬところのものである)ということだ。弁証法的疎外論の言葉を借りて言い換えれば、「実存」とは常に自己を"enteuberung"(外化)させているものということだ。しかし、気になるのはサルトルが「実存的」存在を、人間に限定してしまっており、人間以外のものは"en soi"(即自存在)と決め付けている点である。サルトルは虚無的主観主義の最右翼である。ここに彼の矛盾がある。「自己」に対すると言葉ではいいながら、結局は自己と一体化した自己撞着に帰している。したがって、彼の主観主義の前提を否定する立場に立てば、猫も「実存的」存在であるということは、一概に捨て去るべき言説ではない。趙州狗子の話ではないが「狗にも仏性がある」、ならば「猫も実存存在であろう」である。サルトルは生物学的認識論の検討を最初からすっ飛ばしている。さて、前に戻ってヘーゲルからフッサールへの疎外論から現象学の流れの中で、「自己」に属するあらゆるものを客体化すると述べた。しかし、実はオカブは中学生の当時、独自に唯我論に到達していた。「我」が世界の中心であり認識の主体である。したがって世界を認識する「我」こそが唯一無二の絶対的存在であると。ここまでの考えに至るのにそうは時間はかからなかった。唯我論は決してマイナーな考え方ではない。イエス・キリストも福音書のなかで「たとえ世界すべてを得たとしても、自分を失ったらなんになろう」と述べている。ところがサルトルやフッサールに遭遇して、「自己」とは統合できない主観的実体のない客体であるとの考えに至った。自分とは宇宙の一部に過ぎない。まあ小難しいことはこの辺にしておいて、今晩は猫との「対話」のなかで猫の意識、思惟に思い至った次第。猫のほうが案外、人間よりも悟っているかもしれない。
いずこよりきたりて思う隙間風 素閑