昼のガスパール・オカブ日記

閑人オカブの日常、つらつら思ったことなど。語るもせんなき繰り言を俳句を交えて独吟。

「思い込み」に左右されるということ

2013-01-26 01:25:00 | 日記・エッセイ・コラム

春を思わせるポカポカ陽気に誘われて、下北沢まで出てきた。
商店街を冷やかし、いつもの「セガ・フレッド・カフェ」でビール一杯をもって一休み。
こんな状況であれば、普通の人なら、文庫本でも開いて読み耽るということが考えられるのであろうが、どうも最近、本を読まない。もちろん買うこともない。大脳が退化したのかもしれない。
しかし、「本を書く」という人は、どういう精神状態で書いているのであろうか?オカブには、「本を書く」という行為は、どうも自らの「思い込み」を書き連ねているに過ぎないと思われるのだがどうだろう?もちろん、「思い込み」を持つこと自体、悪いことではない。強靭な「思い込み」がなければ、相当に長い文章を書くための、精神的、肉体的な持続力がもたないだろうと考えるのも自然だ。
しかし、最近の本は「努力すれば売れる!スーパーセールスマンになるには?」みたいな内容のものから、「世界経済を読み解く。今後の世界経済潮流の成り行き」など、または「奇跡のダイエット法教えます」みたいなものまで、ほとんど客観的な自己検証を行っていない、まさに一方的な「思い込み」のオンパレード、その記述内容にも、分析にも、結論にも、発刊後一年経ってみたらなんの妥当性もありませんでした、という類の物が多すぎる。こんなトンデモ本が蝟集しているのが今の出版界なのである。「思い込み」という言葉がなにやら的を得ていない、という向きには「嘘八百」とでも呼び換えてみてもいい。本の著者は、自分が思い付いた「嘘八百」に自己暗示をかけられ、また商業主義の熱烈な崇拝者である編集者から煽られ、「思い込み」を書き殴り、かくして一冊のトンデモ本が完成するという次第。しかし、これは恐ろしく非生産的な「徒労」である。経済的に見れば、出版社に代金が回収され、著者に印税が払われれば、大成功ということなのだろうが、「徒労」に付き合わされる読者としてはたまったものではない。もっとも人生とは壮大な徒労とも見ることはできるが。
夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかに「人間の定義とは要らざるものを作り出して自ら悦に浸っている」者というような一文があったと思うが、漱石も含めて、食っても腹も膨れない、駄文を汲々として作り出している連中はまさに哀れともいうべきであろう。一方で、読者のほうも要らざる活字を唯々諾々と追うことが、なにか高尚な行為であるかの錯覚に陥っているとすれば、ご苦労なことである。
本を書く「思い込み」と似ているものに、営利企業の組織がよくもちぃる「確信」とか「信念」という言葉がある。「今期、営業目標が達成可能であることを「確信し」、各営業担当、粉骨砕身して厳にこの目標必達すべし」とかいうあれである。この「確信」とか「信念」というものにも妥当性があることはほとんどない。これで尻を叩かれる側になってみれば、精神衛生上、非常に害毒であるというほかない。この「確信」とか「信念」とやらで恩恵を被るのは、創業者だの経営者だのばかりで、ペーペーには何の関わりもないことである。というのも、一つの方向に対する「思い込み」やら「確信」やら「信念」やらは、未知の将来に丁半を張った、起業家や経営者らの賭博師には、欠かされざる行動指針であろうが、そんなものに付き合わされるその他大勢にとっては、こんなに迷惑なものはない。それはデマゴーグであり従業員の洗脳に他ならない。もちろん、組織の統合と効果的機能にはデマゴーグも洗脳も必要である。しかし、そのような組織からドロップアウトした身としてはもはやどうでもよい。
オカブは自分が保守主義者であるか、革新主義者であるか判然としたアイデンティティを持たないが(そもそも今の世の中、保守と革新という色分け自体がナンセンスなのであるが)、確かに自分は自由主義者である!という自信はある。だから、自己から疎外された「信念」とか「確信」とかに振り回されるのではなく、自己の自由なるがままにしなやかなる生き方を模索している。
そこで、一度、ここから解放されて自由な風を吸ってみるがよい。それによって、あなたの新たな可能性が見えてくるかもしれない。もう上役の決まり文句から疎外されて生きることに決別し、自由な、あなた自身の決断による道を歩むようにしたほうがよい。
と、まぁ、吹けば飛ぶような会社のプチ起業をしたオカブが勝手な熱をふくのも、季節外れの春の気配に惑わされた世迷言と受け取ってもらって構わない。

寒のうち妻に子のこと任せおり     素閑

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初雪の大雪の成人の日

2013-01-14 16:58:25 | 日記・エッセイ・コラム

朝起きて、天気予報通り雨が降っていると思ったら、雪に変わって、あれよあれよという間に降り積もり、大雪となった。
今年、成人を迎えた諸子にはとんだ成人式となったな、などと思っていたら、テレビでは新成人が、雪の成人式でいい思い出になったと語っていた。うちのエルさんが成人式を迎えたのは去年。いつの間にか時計の針が一年回ってしまった。早いものである。
しかし、今回の雪はたいした降雪である。天気予報では都心の積雪は5センチとかやっていたが、そんなものでは済まないだろう。ゆうに15センチは積もったかと思われる。おかげで、日用食糧品の買い物も一仕事。道路に積もった雪に潜りながらの道中だ。
明日の朝は早朝に起きて雪掻きをしなければならない。今から憂鬱である。

雪降りて来し方顧み虚しさや     素閑

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正月6日の松納め

2013-01-06 16:43:00 | 日記・エッセイ・コラム

早いもので、つい元旦を迎えたのがつい昨日のように思えるが、今日ははや6日である。
仕事も、平常モードというか、正月休んだ分、さらに忙しくなって、4日からの仕事始めで、早、半徹夜状態。在米の日系企業現法のシステム開発のためのボランティア仕事。貧乏暇なしというのは辛いものです。
今日は、Epipahany(エピファニー)。日本語では公現日とも顕現節とも言っている。なんじゃ、そりゃ?という向きに一言。
キリストが生まれたのは、12月25日とされるが、それから数えて12日目の1月6日に、キリストが公に現れたとされる、キリスト教の「節句」のことを言う。俗説には、この日に、東方からやって来た三博士が、黄金、乳香、没薬を捧げてキリストを礼拝したとされる。このEpiphanyはシェークスピアの戯曲、「十二夜」の主題にもなっている。
そして、1月6日は関東地方の一部では、門松をしまう日ともされている。この前、松を飾ったと思ったらもう松納めである。月日が経つのは早い。年を取ってからは、なお早い。
そういうわけで、食事もお節からやっと解放されて平常モード。今日はステーキだ。

松納め幼き子らの遊ぶ声  素閑   

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2013年1月3日ニューイヤー・オペラ・コンサート

2013-01-03 08:49:00 | アート・文化

今日から仕事始め。厳密に言えば昨日の深夜からだが・・・海外の取引先とメールの交換。電話会議。
煩雑なことこの上ない。
そして今朝は、税務署に提出する源泉徴収関係の書類の整理。
ああ、嫌だ嫌・・・いえ、なんでもありません。
おせちの残りの夕飯を済ませて、7時からニューイヤー・オペラ・コンサート。
トップバッターは福井敬さんの「アンドレア・シェニエ」。相変わらずの福井節が目立つ。
またまた林美っちゃんがカルメンをやっていたが林美智子は可愛すぎて、カルメンの妖艶さを演じ切ることが出来ない。

腕枕賀状に手つかず杯重さね     素閑


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そして、今年も出色の木下美穂子。最高の出来といいたいところだが、大分痩せてしまって、音色も声量も落ちたようだ。この力の下落は気になる。
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そして実力No.1と思しき、藤村実穂子。「トリスタンとイゾルデ」からアリアを。普段メゾの藤村がソプラノに挑んだのに無理があったか、手放しでブラーヴァとは言いにくい。どうしてしまったんだろう?
その他、森麻季がソロを歌わなかったり、幸田浩子が演なかったり今年のニューイヤーは演出は例年になく派手だが、首を傾げるところが多々あった。
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しかし、フィナーレは「シャンパンの歌」。この曲で大団円を迎えると景気も良くなる。大変結構。今年のV字回復に期待を寄せる気概が「シャンパンの歌」から湧いてくる。

おめでとおおおおお!!!!!


2013年新年あけましておめでとうございます。

2013-01-01 15:54:00 | 日記・エッセイ・コラム

新年あけましておめでとうございます。
今年が皆様にとって素晴らしい年になりますように。
昨年は景気がどん底の状態で、事業者は青息吐息、年末に総選挙・政権交代があって、心機一転、今年の回復に夢をつなぎたいところ。
大晦日は、N響の第九を聴いて、シルヴェスター恒例の「こうもり」のDVDを見て、新年の討論番組を見て、寝たのは4時過ぎ。今朝は9時に起きだしおせちの準備。隣家の叔母も加わって、一家五人で屠蘇を寿ぐ。
しかし手作りのおせちはいいものだ。芋の煮物、こんにゃく、椎茸の煮物、田作りなど江戸時代の農村のこの上ないごちそう尾であったことだろう。何回もブログで言ってきたが、京都「辻留」の辻嘉一翁は、お節料理でごまめと叩き牛蒡だけは家庭で手作りにしてもらいたいとおっしゃっている。これらは食べるときによく「噛む」ということが伴うので、この「噛む」というのが日本料理の美味求心の心に通じるということだ。この伝統的なおせちの習慣は長く長く引き継いでいってもらいたいものだ。
おせちにも地方、また身分によってさまざまな違いがあるだろう。たとえば、京都の雑煮は味噌仕立てだし、正月に鯛や伊勢海老を食べるのは武家の習慣だろう。我が家は平民の出身なので、土臭い庶民のおせちを家風として引き継いでいきたい。
エルさんには些少ながらお年玉。この子も今年は大学四年だ。何か期するところがあるのだろう、というかあってもらわなければ困る。まぁ、そうは言っても好きな道を歩ませようというのは親心。世間の既成概念にとらわれず、思い切り力を発揮できる道を選んでもらいたい。
お屠蘇にいい加減酔っぱらっていい気持になったところで、ソファでうとうととうたたね。

成さんとす心に熱く初春や     素閑

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日が傾いてきたころから、かーたんと三茶に散歩。西友が開いていたので、かーたんは財布を新調した。4900円也。来年は金運に恵めれ増すように。
家に帰って、年越し蕎麦とおせちの残りで夕食。もちろんお神酒も聞し召した。
正月はだらだらとぐうたらし倒す。
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7時からウィーンフィル2013年ニューイヤー・コンサート。今年はフランツ・ウェルザー・メストの指揮だ。
今年のウィーンフィルはワーグナーとヴェルディ生誕200年にかけて、両者にかかわる曲が選ばれたこと。
しかし大半が聴いたことのないワルツやポルカなので退屈してしまった。なかで「ローエングリン」三楽章序奏はよかった。
ただ、メストの曲つくりは遊び心がないというか、ウィーンのきらびやかさには似つかわしくない、かっきりとした演奏なので少し物足らない。

今年は良い年にしよう!

成さんとす心に熱く初春や     素閑