春を思わせるポカポカ陽気に誘われて、下北沢まで出てきた。
商店街を冷やかし、いつもの「セガ・フレッド・カフェ」でビール一杯をもって一休み。
こんな状況であれば、普通の人なら、文庫本でも開いて読み耽るということが考えられるのであろうが、どうも最近、本を読まない。もちろん買うこともない。大脳が退化したのかもしれない。
しかし、「本を書く」という人は、どういう精神状態で書いているのであろうか?オカブには、「本を書く」という行為は、どうも自らの「思い込み」を書き連ねているに過ぎないと思われるのだがどうだろう?もちろん、「思い込み」を持つこと自体、悪いことではない。強靭な「思い込み」がなければ、相当に長い文章を書くための、精神的、肉体的な持続力がもたないだろうと考えるのも自然だ。
しかし、最近の本は「努力すれば売れる!スーパーセールスマンになるには?」みたいな内容のものから、「世界経済を読み解く。今後の世界経済潮流の成り行き」など、または「奇跡のダイエット法教えます」みたいなものまで、ほとんど客観的な自己検証を行っていない、まさに一方的な「思い込み」のオンパレード、その記述内容にも、分析にも、結論にも、発刊後一年経ってみたらなんの妥当性もありませんでした、という類の物が多すぎる。こんなトンデモ本が蝟集しているのが今の出版界なのである。「思い込み」という言葉がなにやら的を得ていない、という向きには「嘘八百」とでも呼び換えてみてもいい。本の著者は、自分が思い付いた「嘘八百」に自己暗示をかけられ、また商業主義の熱烈な崇拝者である編集者から煽られ、「思い込み」を書き殴り、かくして一冊のトンデモ本が完成するという次第。しかし、これは恐ろしく非生産的な「徒労」である。経済的に見れば、出版社に代金が回収され、著者に印税が払われれば、大成功ということなのだろうが、「徒労」に付き合わされる読者としてはたまったものではない。もっとも人生とは壮大な徒労とも見ることはできるが。
夏目漱石の「吾輩は猫である」のなかに「人間の定義とは要らざるものを作り出して自ら悦に浸っている」者というような一文があったと思うが、漱石も含めて、食っても腹も膨れない、駄文を汲々として作り出している連中はまさに哀れともいうべきであろう。一方で、読者のほうも要らざる活字を唯々諾々と追うことが、なにか高尚な行為であるかの錯覚に陥っているとすれば、ご苦労なことである。
本を書く「思い込み」と似ているものに、営利企業の組織がよくもちぃる「確信」とか「信念」という言葉がある。「今期、営業目標が達成可能であることを「確信し」、各営業担当、粉骨砕身して厳にこの目標必達すべし」とかいうあれである。この「確信」とか「信念」というものにも妥当性があることはほとんどない。これで尻を叩かれる側になってみれば、精神衛生上、非常に害毒であるというほかない。この「確信」とか「信念」とやらで恩恵を被るのは、創業者だの経営者だのばかりで、ペーペーには何の関わりもないことである。というのも、一つの方向に対する「思い込み」やら「確信」やら「信念」やらは、未知の将来に丁半を張った、起業家や経営者らの賭博師には、欠かされざる行動指針であろうが、そんなものに付き合わされるその他大勢にとっては、こんなに迷惑なものはない。それはデマゴーグであり従業員の洗脳に他ならない。もちろん、組織の統合と効果的機能にはデマゴーグも洗脳も必要である。しかし、そのような組織からドロップアウトした身としてはもはやどうでもよい。
オカブは自分が保守主義者であるか、革新主義者であるか判然としたアイデンティティを持たないが(そもそも今の世の中、保守と革新という色分け自体がナンセンスなのであるが)、確かに自分は自由主義者である!という自信はある。だから、自己から疎外された「信念」とか「確信」とかに振り回されるのではなく、自己の自由なるがままにしなやかなる生き方を模索している。
そこで、一度、ここから解放されて自由な風を吸ってみるがよい。それによって、あなたの新たな可能性が見えてくるかもしれない。もう上役の決まり文句から疎外されて生きることに決別し、自由な、あなた自身の決断による道を歩むようにしたほうがよい。
と、まぁ、吹けば飛ぶような会社のプチ起業をしたオカブが勝手な熱をふくのも、季節外れの春の気配に惑わされた世迷言と受け取ってもらって構わない。
寒のうち妻に子のこと任せおり 素閑