散歩絵 : spazierbilder

記憶箱の中身

廃墟を歩く

2006-09-14 00:24:37 | 自然観察
私の住む街の外れにHaus Meerと言う電車の停留所があって、その名は今は既に廃墟化してしまった屋敷地所の名を指す。
個人所有地であるため普段は立ち入る事が出来ないのだが、先日曜日は一日オープンドアーだと新聞の記事で読んだので、出かけてみた。
要所要所で訪問者達に、”Haus Meerを守る会”の人々から興味深い話を聴く事が出来た。
この土地からは紀元前1500年頃ブロンズ時代の発掘物が出土、ローマ時代の遺跡も発掘されたらしい。
1166年には尼僧修道院が建てられた。
1804年宗教改革によって修道院は解体し、売られて1960年まで個人所有地で屋敷が立てられていたが戦争後すっかり傷んでしまった。
1963年に史跡保護地区に指定されたが、実状は手入れも無く荒れて行くばかりであった様だ。
以降所有者は入れ替わり立ち代りして、現在に至っている。
途中老人ホームや個人駐車場などを建てる計画が立ち上がったが、様々な問題によってプランは延期され、史跡保護局が遺跡発掘を再開し青銅時代の陶器などが出土された。建築プランと史跡保護団体の反対がおしくらまんじゅうを続け現在に至っているわけだ。
いぞれにせよ修道院の廃墟も一部壁を残すばかりになり、維持をするのは難儀だ。

今年の最後の夏日とでも言うような陽の眩しい日曜日の午後、草丈高き荒れた庭園は明るいながらも、どこか過去の湿った空気を引きずっているような、秘密めいた雰囲気が漂っている。



 

広大な庭園には古い200年を越えているプラタナスがジャングルのように丈高い草の生い茂る中にそびえていた。大人4人でやっと囲むほどのプラタナスである。(説明をしてくれた婦人は男が6人繋がってやっと囲えるほどに大きい樹と前宣伝をしていたけれど、私の見た感じでは4人だ。)
一年に一度も公開されない場所であるから、普段は調査団がこの"公園の主”の周りをたまに通り過ぎるか、兎や鹿が静寂を破るくらいなのに違いない。最も航空路を真上に控えて静寂はこの付近に無いというのが現実なのだけれど。

200年の大木といってもまだ若い方なのかもしれない。
世の中には我々人間が気の遠くなるような時代を生き続けている木々が存在している。
我が家の本棚に"ドイツの古い樹木”と言う本が並んでいて、それを見ながら比較的近辺に在る古樹に会いに行った事が何度かある。簡単な地図を元に捜すのは少々難儀である場合もあるが、その近所までたどり着けば道行く人に尋ねれば良い。たいがい皆”樹”の事を知っていて道を教えてくれるからだ。樹齢500年だの600年だのという樹に辿り着いてみると出会えた喜びと畏怖に近いものが混ざる。気の遠くなるほどの時間を想っての畏怖?
"樹”の話。
ある人は古樹の持つ何かが我々に安らぎを与えるというような事を話した。
ある人は樹が語りかけてくるのを聴いたと言った。
ある人は大樹を見たら必ず近づいて抱きついてみるといった。
ある人は樹の下で瞑想をすると言った。
ある人は樹皮の下を流れる樹液の音を聴くのだと言った。
又ある人は
「この樹の前を通り過ぎるときに父はいつも帽子を取って挨拶をしたのよ」と言った。
するとある人は
「アフリカではある種の大木には近づかないほうが良いのですって。無闇矢鱈に古樹を触ると樹の精が怒るのだそうよ。」と話した。
何故その樹は怒るのだろうか?とても興味がある。

今枕元に詰まれている本の山の中に「樹の神話」と言う本があって、「ふう~ん」とか「へえ~」とか「ほお~」などと言いながら、ちょっとづつ、つまみ読みしている。中々面白いのだけれど、その話は又この次に取って置くことにしようとおもう。

近所の廃墟の話から思わず樹の神話に流れて迷路にはまって抜け出る事が出来なくなりそうになってきたので、ひとまず今日はこの辺でおしまい。

今夜は夢で樹と話が出来るだろうか?


万能植物