私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

過去について

2011年09月13日 20時43分58秒 | 過食症
過去について話します。

2007年の2月か3月か、私はその頃に過食症にかかりました。

当時私はアルバイトに勤めていました。

職場が好きでした。

そこにいる人たちも仕事の内容も好きでした。

飽き症の私が3年以上働いていた職場です。

発症してしばらくは、過食を抑えてはすぐに再発させるを繰り返しながら勤務を続けていました。

最初は過食症という病気の存在を知らないので、私はいったいどうしてしまったんだろうと思いました。

やがて過食症という病気のことを知り、自分がそれに侵されていることを自覚しました。

安堵する想いがありました。

病気なら治る、なんとかなる、と。

しかし治らない。

ネットで過食症のことを調べたり、過食症に関する本を買ったりしました。

自分からかけた電話か、かかってきた電話か覚えていませんが、母親に過食症に罹ったことを伝えました。

あのとき母親は初めてそう告げられて、なんて思ったんだろうか。

当時の私はそれなりに頑張って戦っていたと思います。

結局は敵わなかった。

私は逃げ出しました。

そんなことをしても何にも解決しないとわかっていたけど、そうせざるを得ないような、何か流れを変えて断ち切らないといけないような、地獄の渦から抜けだしたいような、楽になりたいような、そんな気分でした。

電車に乗ってバイト先へ向かうところを、私は逃げ出しました。

あれは私の心の叫びだったような気がします。

行く先に当てはありません。

それからは宿無しの現実逃避の日々です。

辛いというよりなんか解放された感じがしていました。



逃避してわりとすぐ、見知らぬおばさんに声をかけられ車に乗せられマンションの一室に連れて行かれました。

働き口を提供するとのことで付いて行ったのです。

その夜はそのマンションでたくさんの人と横になって眠り、翌朝には小さなワゴン車にギュウギュウ詰めに乗って建設現場に向かい、そこで働きました。

その夜、私と同じ日にそのマンションに連れてこられた人に誘われる形で私はその一室を抜け出しました。

一日だけ働いた建設現場は高層マンションでした。

たいした働きもせずに、ただゼイゼイ息を切らして疲れているだけだったように思います。

建設現場の高い場所に立って暮れかかる夏の夕日を見ながら、逃げ出してきた職場の人たちのことを考えていた記憶があります。

一室を抜け出してからは、抜け出そうと誘った人ともすぐに別れるつもりだったのですが、向こうはそのつもりはなかったようです。

どうやら私の所持金を当てにしているようでした。

そういえば貯金もあるからしばらくは働かなくても逃避生活はできるみたいなことをその人に話していたので、とにかく金銭面で狙われている節がありました。

その証拠に逃げ出した夜、彼は知り合いを一人連れ出し、その人と3人で居酒屋に入って食事をしたのですが、そこのお金を当たり前のように私一人に払わせました。

そのあとも付いてこようとするので、私は家に帰ると嘘をついて逃げました。

居酒屋ではなぜ私がこのような逃避生活をしているのかということを話しました。

当然本当のことは話しませんでしたが、素直に親のもとに帰った方がいいと言われたのに対して、今帰ったらただバカにされるだけだと思うと答えたのを覚えています。



その後は過食しながら、夜は主に漫画喫茶で明かしました。

この逃避生活にどう決着をつけるか。

想像するに、最終的にはお金が底を尽きて、それでも過食したいから犯罪を犯す。

犯罪を犯す、というのは悪くないと思いました。

犯罪を犯せば逮捕されて獄に入れられます。

そうすらば私がいくら望んでも過食はできない。

ただ、人を傷つけるような犯罪はしたくありませんでした。

人は傷つけない、それでも罪としては重い犯罪。

覚醒剤。

私はまず手紙を書きました。

親に手紙を書いたのはあれが初めてでした。

過食症に侵された自分の胸の内を告白しました。

手紙を書きながら涙を流したのを覚えています。

それから西成区に向かいました。

そこで手紙をポストに投函しました。

西成区は覚醒剤の売人がいると有名な街なのですが、幸か不幸か、私には売人に出会うことができませんでした。

結局私は逃避生活を初めて2週間か3週間で、公衆電話で実家に電話しました。

逃避生活が終わりました。



悲劇は今もなお続いています。

一生続くかもしれません。

私はなぜこのような罰を与えられたのか、未だにそれがわからずにいます。