私が死んだあとであなたが読む物語

基本的には「過食症患者の闘病記」、と言っていいでしょう。

意識しすぎるがあまり

2011年09月25日 23時27分46秒 | Weblog
静寂は皆のものだ。

そう豪語した私ですが、一切の物音を立てずに生活するなんてことは不可能です。

人間、咳もするしクシャミもする。

誰かといれば会話だってする。

生命あるところに音はあります。

静寂を破ることは生命の宿命ともいえます。


私の住んでいるところは、どだい静寂を求めるにはお門違いなのです。

家のすぐ前の通りを車が通れば、その音は必ず聞こえてきます。

通行人が会話しながら通り過ぎれば、その音で静寂は破られます。

私の家の前だけ通行禁止とか、私の家の前だけ会話禁止とか、そんなことは罷り通りません。

それでも、長時間アイドリングしたり、屯して話し込んだり、大声で遊んだりってのは許されることではありません。


完璧で揺るぎない静寂なんて、そうそうあるもんじゃありません。

私が静寂を求めるのは、集中したいからです。

勉強や読書がしたいからです。


こんな家でも、たまに静寂が訪れます。

しかし、それはとても不安定な静寂です。

いつ破られてもおかしくない静寂です。


もし今、静寂に包まれていたとしても、いつこの静寂が破られるのかと思うと、落ち落ち集中もできません。

今ここにある静寂が貴重であると思うがあまり、いつ失うのかと怯えてしまっています。

静寂を意識するがあまり、とても生きにくくなってしまったような気がします。

今までどうやってやり過ごしてきたんだろうか。


「呼吸しよう、呼吸しよう」と意識するがあまり、上手く呼吸ができなくなる、みたいな現象なのでしょうか。