青い鳥の世界へ

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無縁社会の根源 (下の下)

2011年02月20日 | 人生設計
これまでに述べたように、この世には無数の素粒子が充満しており、この素粒子同士が結び付きあい化合して元素を形成し、それが物質となり、やがては生命誕生へと繋がってゆく。
これらにはすべて二つと同じ形や性質、性格のものは無い。
たとえ素粒子として同じ、電子や陽子、元素として同じであっても、他の素粒子とどう結ばれるか、または電子がどの陽子等と結び付きあうか、陽子がどの電子等と結びつきあうかは、言うなれば「相性」があるか無いか、それは「縁」を持つか持たないかによって変わってくる。
そこのところが、皆一様ではない。

ただ一つだけ言えると思うのは、「個」としてはいられなくて、他との関わりが無ければ「ジグソーパズル」のようにチャンとしたこの世が存在しえないという事だけは、確かなのである。

それはそうと「無限社会の根源」についてだが、今も述べたように、全てに於いて相対する対象性との間に、「持ちつ持たれつ」の関連を持たなければならない。この事は「能動性と受動性」が無ければならない事になる。
それは言い換えると、「プラスとマイナス、表と裏」というような反面的な事ではあるけれども、この半面性との間に能動性と受動性の働きが無ければ、この世の存立は無くなる。
「無限社会」というのは、人間界に於いて、この半面性との間の「能動性と受動性の働きが崩壊し、破壊された状態の一つの姿を現している。

前章の最後に問いかけたが、「プラスとマイナス、表と裏」の関係が壊れ破壊されたらどうなるだろうか。
こうした事を、人間界で行われてしまい、そうした事が一つの原因となって「無縁社会」などや社会の混乱、悲惨な事件や争い事が絶えない。
何故こうなったかというと、それは「女」にある。

太陽は昼に輝くもの、月光は夜に輝くもの。
それが「男女平等、男児同権」という事によって、太陽を夜に輝かせ、月光を昼に輝かせるような世の中にしてしまった。
元々は「男尊女卑」の是正であり、「奴隷制度」や「四姓制度、身分制度」の解放という民主化ではあったが、ところが「女」は、「女」としての本性的役割である「家事、育児、介護」といったものを離れるとか放棄して、男の分野に躍り出る事によって「男女平等、男女同権」を唱えようとしとている。
この為に、昼夜逆転的な現象が起きることとなった。

こんな事を述べたりすると、「女性蔑視、侮辱」と言われるかもしれないが、女が女の役割や勤めを離れるとか放棄する事は、自分自身を蔑視し侮辱している事になる。
女が「平等、同権」を叫ぶのは、こうした女としての役割や勤めを「犠牲を強いられる」と受け止めていた事にあると思える。
しかし男は、男なりに「家族を養い、女房孝行をし、家屋敷を支える」などというための犠牲を払うという役割と努めを課せられている。こういう男の役割と努めを、裏で支えるのが女の務めであり役割であったと言える。いわゆる「内助の功」である。

この「内助の功」を女は捨てて放棄して、表に出たがったことによって世の中が狂いだした。
これに科学技術の発達によって家事などが楽になり、更に媚薬の様な誘いがマスコミメディアによって「これでもか、これでもか」と追い立たせる。
だからこうした事によって女は、「独身でいたがる。子供を産みたがらない、老親の世話や子供の世話をしたがらない」などとなっていった。

だが、元々は男たるものが、男たらんとしていなかった事にもある。
こんな事を言う者がいる。
      「男が外で仕事をしているのに、家事や子守をしろというのか」
しかし「家事、自分の子の子育て、所帯のやり繰り、世間との世渡り」なども仕事と弁えない事には、一人前の男とは言えない。
こうした一人前の男にしていくのもまた、女の役割であり務めなのだ。「妻として、女親」としての任務なのだ。
しかしながら今日の「妻や女親」は、夫や息子の操縦がうまくできない。出来ないと言うよりも、そんな事よりも、自分が「どう美しくきれいになるか、どんな美しいきれいなものを着るか」とか、子供に女の子がいれば、その女の子を人よりも目立つように美しくきれいにしてやろうと一生懸命になる。
自分の子より他所の子が美しくきれいだと劣等感を持って妬み、負けずになる。
それだから「家事、子育て、介護」などは放ったらかしになるものだから、そうした事が高じて「無縁社会」が広まっていく。

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釈尊は、自分の教えが広がるにつれて、修行の集団の中に女性を加えるのを許さないでいられた。だが初めにも生国、母国の興亡についてで述べたように、釈尊がいかに反対していても、いずれは加わる事になるだろうと観て取ったらしく、許されている。
何故釈尊が女性が加わる事に反対していたかというと、恐らくこれまでに述べたような女性が持つ本性を見破っていたからだろうと思われる。

そして又釈尊は、釈尊の教えというものは「縁起」に立っている。即ち「縁」である。
この「縁」というものの「性」に、女性が持つ本性を看取られていたと、思う。
それは即ち、「受態、出産」能力である。