先日、確か先週の水曜日だったと思いますが、新しい男性の利用者が見えられたとご紹介しました。この方は、「牧師さん」でいらっしゃられた方です。
今日もお見えになられまして、私がお会いするのは3度目。
今日この方にあって、ちょっと気にしていたことがあったので、思い切って話しかけ、お尋ねしました。
事はというと、私は私自身が記述しているブログがあるのですが、そこに先日、私はキリスト教徒でも、キリスト教については素人なのですが、「キリスト教」関係、「聖書」の事について私なりの思いを述べました。
それをセンターのパソコンで印刷して、この方に見てもらってご意見を伺った訳です。
今ではほとんど寝た切り、車いすに座ったきりで、食事も取れないお体ではありましたが、正確な「聖書」の言葉を覚えておられて、間違いの個所を指摘して頂きました。
お陰で私は、助かりました。
何せ次には、「原罪」という聖書に使われている言葉について、私なりの諒解をブログに書こうと思っていたので、とても参考になりました。
この方との話は、聖書にある「汝人を許さずば、師も汝を許さないであろう」ということについて述べ、また「何人も神と富とに兼ね仕えることはできない」、こういう述べ方がちょっと違っていたと教えていただいたのですが、それはそうと「原罪」という、人が「生きたい、食べたい、子孫を残したい」という思いだけでは無しに、それを超えた「権力、財力、地位」などを求めて止まないという「原罪」が、それが「何人も神と富とに兼ね仕えることはできない」という事に帰結すると思ってしまいます。
「権力、財力、地位」は、「私とあなた」という間柄があるからでありますが、私たちのようなディサービスを受ける身には、この「私とあなた」という間柄を持っていたら、気持ち良くディサービスを受けてはいられません。
私は昨年から、体にたくさん湿疹ができています。そんな体の私とを、ディセンターの職員さんはお風呂に入れてくれ、洗ってくれ、塗り薬を塗ってくれます。
もしここに「私とあなた」というような「分別、差別」があったなら、気持ち良く過ごすことはできないでしょう。
では聖書の「神と富とに兼ね仕えることはできない」ということとの関連となりますが、「原罪」からの脱却には、「私とあなた」との「統合、融合」による「統一」しかないことになります。云ってみれば、「私もあなたも無い、同じ命あるもの」と認め合うということですね。
「同じ命あるもの」と認め合うならば、自然と「ありがとう」と言いたくなってしまいます。
一端の拙い記述したものを見てもらったのに、牧師さんは「いいものを見せてくれてありがとう」と言って下さり、また次の日に会い、また記述したものを見てもらいたくなってしまいます。