かってその昔、「末法思想」というのが持てはやされた。西洋で言えば、「終末思想」である。
こうした「末法思想、終末思想」が、天災地変や争い、それだけでなく「親が子を虐待し、子が親を虐待」するばかりでなく、「親が子を殺め、子が親を殺め」るのが日常茶番飯の如くなった現在、「心の安心と拠り所」を求めて、精神修行に精を出そうという人々が出てきている。
この精神修行には、いろいろな手法が紹介されているが、ここでは「座禅」について述べてみたい。
「座禅」というと、「只管打座」ともいう。
それは、「ただ座って執着を離れて無心になり瞑想」することを言っているのだが、どうもここのところが誤解されているように思う。
「座禅」とは、「無心になって静止して瞑想」することではない。「動」と「静」の中で、「自分を包み込むすべての物」に対して、「気配り」することである。この「すべての物への気配り」には自分自身」も含まれ、「すべての者に対して気配りして大切」にしていくと同時に、「自分自身を粗末」にすべきではない。
こうしたことを、ただ「座禅」している時に行えばいいというものではなく、行住坐臥、即ち生活全般においての事が「座禅」でなければならない。
この「すべてのものへの気配りをする座禅」は、必然的に「すべてのものへの思いやり、労り、心遣い」を持つことになる。これは「慈しみ、慈悲」である。「愛」ともいう。
自分ひとりだけのもののために行い物ならば、それは「座禅」ではない。
なお、「念仏業、お題目」なども、この「座禅」の一種に属せるものといえるが、騒がしさで人に迷惑をかけるのはよくないだろう。