私は前述「人を許さずば」と「今日のディサービス」で述べたしたように、キリスト教徒ではないし、聖書に精通している訳でもない。
ただ、ひたすら「人として生まれてきたこと」の意味と、「どのように生きて行けば良いのか」を求めて止まないだけである。
そして聖書の「原罪」という言葉に出会い、突き当たる。
「原罪」とは、「今日のディサービス」の中でもちょっと述べたように、「生命あるものは生きたい、食べたい、子孫を残したい」という思いを持っている。そしてそれだけではなしに人間は、「知恵」というものを授けられたことから、「権力、財力、地位」を求めて止まないようになってしまっている。
一般としての概念に立つならば、この度を過ぎた「権力、財力、地位」志向が「原罪」に当たると言えるかもしれない。
しかしそれは「法を犯す」といった「人間の犯罪行為」を差しているもので、宗教的精神的道徳的ともなると、こうした事に限定することはできない。
我が国には親鸞聖人という、お方がいられた。
親鸞聖人は、人間はどんなに修業をしても、結果的には清浄で全くの善人になれないことを思い知らされ、人間としての自分自身を御仏の前に差し出されてしまっている。
そこには「人間自体が持つ罪、人間としての罪」という大きな命題に突き当り、この大きな命題の前には厭が上でも差し出すより外はなかったからである。
キリスト教では、罪を告白する「懺悔」という行いがあるが、これは「懺悔するもの」と、「されるもの」とが相対関係化している。親鸞聖人の場合は、「御仏の前に身を差し出す」という行いによって、「懺悔」は、自分自身に対して行い、またその「懺悔」を受けるのも自分自身という、「自他一体」化した行為になっている。
こうした親鸞聖人、その親鸞聖人の師であった法然上人の教えの元となる「絶対他力」の根本精神を垣間見ることができる。
「絶対他力」に、「原罪」を承服して行く、王道がある。