青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

一切の悲劇

2008年10月20日 | 人生設計
「一切」という言葉がある。
この「一切」という言葉の意味は、「全部。すべて。残らず。」ということであるが、これでは「何を基本に」、あるいは「何を視点に」、そして「何を」それに含めて「一切」としているかが表されていない。
ここで、釈尊が語られた「一切」についての言葉を見てみると、物や物事が対称性を持ち、相関性を持っている事が良く判る。

「目の一切は眼に見えるものであり、耳の一切は耳に聞こえる音が一切であり、鼻の一切は鼻に感ずるにおいが一切であり、舌の一切は舌に感ずる味が一切であり、皮膚の一切は肌に感ずる感触が一切であり、これ以外の一切は言葉のみである」          釈尊の言葉

私達は、「目や耳や鼻や舌や皮膚や言葉」で感じたものを一切とし、それが好ましいものならば受け入れ、好ましくないなら厭うている。そして受け入れない。
この「厭い、受け入れない」ことが、私達の悲劇を招いている。

これは個人でも、社会でも、国家においても行われている。
「目に対する目の対称性・・・・」というような、一切というものに対して、素直に真実に如実に受け入れないで、「好ましいのと好ましくない」というような差別感情を介入させたがために、それは今年度のノーベル物理学賞の対象とされた「自発的対称性の破れ」というような現象が人々の心に芽生えて、それが波状的に人間社会に拡散している。

これは「目が見えるがための怖さ」であり、「耳が聞こえるがための悲劇」である。
「目が見えない、耳が聞こえない」、そして「手足が無い」者の身にもなり、そうした人達が、人として生きる事がどういうことかを、私達は、時には身にしみて思わなければならない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする