青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

愚かさの美学 (番外編 7)

2008年10月06日 | 人生設計
私達は「今、生きている」という、存在感を持って生きている。どんなに虚脱していても、何らかの存在感を持って生きているだろう。
しかしこの私達が思っている存在感は、いつ何時崩れるかもしれないという、危ういものでもある。ことに今日のようにいつ災害に見舞われるやら、事故事件に見舞われるやら判らない状況の中では、いつ何時「死」と向き合わないとも限らない。
それなのに私達は、この「死」というものと、向き合う事がない。むしろ、避けがちになっている。

こんな事を述べると、当事者からは非難ごうごうを受ける事になるだろうが、「医療訴訟」という事には、私には納得できない部分がある。
「医療訴訟」をする人達は、何故「医療事故」という事にしか目を当てないのだろう。
そもそもの元は、医療を受けなければならなくなった、という事実からであったはずだ。この「医療を受けなければならなくなった」という事実の時に、医療を受けなければ、この被害者は助からなかったかもしれないのである。
即ち、「医療を受ける」時点で、生死は分かれていたことになってくる。
ところが、この事実を忘れていて、医療を終わった後の結果について「訴訟をする」とか言っている。これは「愚かさの美学」そのものと言わざるを得ない。
もっと有体に言えば、いつか訪れるかもしれない「死」と向かい合っていない、「愚かさの美学」なのである。

こうした事は「拉致被害者」の家族の人達に対しても、言う事ができる。
「拉致被害者」の家族の気持ちは、よく判る。
しかしだからと言って、相手に対して「経済制裁」などというのは良くない。そうした「報復や復讐」めいた事をして、何になるだろう。
もとより「拉致を指導、決行」したものには、制裁を加えるべきかも知れない。しかし「経済制裁」のようなものは、飢えや飢餓に苦しむ一般庶民を苦しめる何物でもない。
といっても、現在のようなやり方の「経済援助」ではなく、高級品とかブランド物ではない、ごく普通の、上級家庭や富裕層が目もくれないような物資で、それでも貧因層に喜んでもらえそうなものを援助すると良いと思う。「制裁一辺倒」では無しに・・・・。
何彼と「報復、復讐」的なことをするのは、「被害者、被害者」と言ってしおらしい事を言っても、罪も無く困窮している多くの人々を、更に困らせようと意図している、恐ろしい「愚かさの美学」を持つ貴方方である。

この二つの例は、言ってみれば「可愛い、愛しいわが子」を、病気や事故で失ってしまって、それを「蘇らせてくれ」というのに似ている。
だが、それは出来ない。それこそ「愚かさの美学」なのだからーーーー。
私達は、どこかで諦め、事実を事実として素直に受け止めて、いつまでも事実に目を背けて拘り続けていないで、「愚かさの美学」を断たなければならない。
コメント
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