青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

自由という責任

2008年10月25日 | 短歌に政治や社会
私達は自由」という言葉を、よく使う。
二十歳になったから「タバコを吸う自由や、酒を飲む自由」とか、あるいは離婚して「晴れて自由になった」というようなのや、マスコミメディアなどの「表現の自由」などがある。
このように「自由、自由」と何でも「自由」というが、その「自由」には大きな「責任」が課せられているのを認識していないで「自由」といっている。

二十歳になったから「タバコを吸う自由や、酒を飲む自由」というが、それは「タバコを吸った、酒を飲んだ」について、そのための責任が課せられた事を意味している。ただ「吸えば、飲めば」良いものではないのである。
離婚して「晴れて自由になった」というようなものでも、これまでの連れ合いの庇護を離れて、全ての全責任を一人で負わなくてはならない。それが「自由」の意味するところである。

マスコミメディアなどの「表現の自由」にしても、今月初め頃だったと思うが、テレビで「バカ殿様」という番組が放映された。この中には、とんでもないほどの「猥雑でセクハラ」じみた内容のものが描写されている。
実社会では、こういう現場はたちどころに「訴訟」の対象になる。マスコミの、いい記事ネタになる。
しかし現実には「訴訟」されないし、番組審査会というものも動いていないし、マスコミも取り上げない。実写といえる映像があるのに、である。
これが教師とか、会社役員とか警察官だったら、社会問題になっただろうが、「表現の自由」でそうはならないらしい。
マスコミメディアには、その「表現の自由」には、無責任なのである。

「自由」に「責任」が付随しないなら、「自由」には「自由」としての価値がなくなる。その価値のない「自由」が、世の中に謳歌している。
その為に「俺が、私が」ということばかりで、「助け合い、譲り合い」が希薄になっている。
「青い鳥」は、それ故に困惑して、何でもかでも記述してしまっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする