青い鳥の世界へ

人として厳しい中で生きていかなければならない中、少しでも良い世界になったら。そして、より明るく、清らかに、暖かく。

許されざる一方性

2008年10月22日 | 人生設計

私達が生き、住んでいる世界は、不思議な世界である。
豊かな森羅万象を描いているかと思うと、喜怒哀楽を味合
わせる現象を出現させる。
では、何故この世は、このように流転し、流動していくのだろうか ?。

この疑問に対して、簡単に答えられる一つの答えがある。それは、
「この世は未完成である」
という事である。
「完全に完成」していないがために、流転し、流動している。即ち「無常」なのである。
この事は、今年度のノーベル賞の物理学部門の対称となった「自発的対称性の破れ」という現象も、別段大発明というものではなく、ごく「当たり前」のものでしかない。

私達の住み、生きている「この世の世界」は、突き詰めて言えば、根本物質の素粒子によって構成されている。この「素粒子が完全に完成」されたものならば、豊かな森羅万象の世界も描かれることもないし、喜怒哀楽が出現する事もない。「静止」した状態になる。
だが「未完成」の状態であるがために、完成を求めて活動を開始している。それが「自発的対称性の破れ」という現象などとなって現れている。「森羅万象も喜怒哀楽」も、完成を求めて、さまよう姿といえるのである。

この様子を、例えをもって語ってみよう。
ちょっとした「湖」がある。
この湖は完成していないため、どんなに静止していても、よどんでくる。濁ってくる。このよどみや濁りは、時と共にまだらになり、濃淡となる。
別な意味では、「大小、長短、高低、重い軽い」と言った格差が生じてくる。
しかし「完成」したものではないため、このままでは定着せず、この状態は是正行為「元に戻ろう」として調整しようとする、いわば「平衛を保つ、バランス」行為を行う。
ということは、「未完成」というのは、ただ闇雲に突き進むという事ではなく、全体的に「協調的、共生的」に合わせていかなくてはならない事になる。
即ち「一方的な独善行為」を許さないのである。

未完成であるがために、完成を認めて「一方的独善的」になりがちなのは、この世に存在するものが持つ「特性」といえるものである。それが私達「人間」に、特に酷い。
「豊かさ、権力、金銭、地位、学力、そして美」などを、数値評価して一喜一憂している。これが個人や、一つの家庭や集団が、更に国家単位で行われている。

「平衛、バランス」を保つには、どうしても「一方的な独善行為」に立たず、相手の立場にも立たなければ立たなくなる。また、「譲る」ということも大切になる。それは「人にも良く、自分にも良い」事でなくてはならない。
これはまた、釈尊と弟子の、次のような会話が思い出される。

弟子 「この世に辺があるのかないのか、この世に終わりが有るのか
無いのか」
釈尊 「判らぬことは、判らぬままにするが良い。今は人生   苦の解決を急ぐが良い」

現在の私達は、「科学文明を発達」させることが大切なのか、それとも「それぞれの人生や社会を明るく」していく事が大事なのか、「許されざる一方性」に立って考えてみる必要がある。
それが、自然の摂理に沿い、真理に沿う。