高層の建物から見下ろす「富士通川崎スタジアム」は鈍色の空に芝目もくすんで見えた。ほんの十分ほど前から防具に身を包んだプレイヤー達がフィールドに散らばっている。
そうか、今は「アメフトの聖地」なんて呼ばれたりしてるのだった。目を凝らすと黄色い音叉の形をしたゴールも見える。かつてはホームランの出易い球場として名を馳せた大洋ホエールズ(その後ロッテオリオンズ)のホームグラウンド「川崎球場」。今はその面影は無い。せり上がった独特の形状のスタンドは取り壊され、空色の、横に長く配列された観客シートが目立っている。焦げ茶色のハエ叩きのお化けのような形をした照明はLEDだろうか?かつての大仰なカクテル照明の佇まいに比べると何ともスマートな代物だ。
もう半世紀近く前の話になる。新聞販売店には拡張用のプロ野球チケットが常備されていた。光沢のある紙にイラスト入りで印刷された巨人戦のチケットは例外的伝家の宝刀だが、パリーグを始めとする弱小チーム、万年下位チームのチケットは小学生が飛び込みで「くださいな」と声をかけると気安く分けてくれた。勿論タダで。
いつも友達同士で握りしめて通ったのは安っぽいピンク、オレンジ、緑、黄色の紙に印刷された「大洋×ヤクルト」等の青い文字。ミシン目も無く、外野入場口で渡すだけ。(しかも、実は6回の裏頃になるとモギリの人も居なくなりフリーパス)マジソンバッグの中身は折り畳み式オペラグラスとホームランボール捕球用のグラブにプロ野球ファン手帳(王貞治一本足の写真のです)。今にして思えば当時の男子小学生の娯楽の王様であったプロ野球ではあるが、テレビで見るのは巨人戦、地元民として応援するのは大洋、という図式があった。あくまでもコアなファンではなく形ばかりの湘南電車カラーの大洋帽をかぶり観戦しに球場へ行くのはむしろ娯楽的要素が強かった。
川崎球場名物「肉うどん」を食べて、発砲容器の底をくり抜き、コーラのロングカップと組み合わせた即席メガホンで酔っ払いのオッサンに交じってヤジを飛ばす。当時はダブルヘッダーなんてのもしばしばあり、試合終了後に通路等に潜んでいると次の試合まで観ることもできた。しかし、通路には不思議と度々人間のウ●コが落ちていたりした。
試合が一方的になり興がそがれるとするのが球場内を探検。スコアボードは人間がペンキで数字を書かれた板を差し替えてクルリと回す方式で、裏側には詰めている人が何人か。観客席からも「クルリ」の時に人の手が見えるのが何だか可笑しかった。その現場を見たくて部屋の裏口を開けそーっと覗いたら見つかってしまい、摘まみ出されたりしたことも。
現在の冠企業「富士通」も実は川崎ゆかりの会社である。元々、富士電機として100年前この近くで創業し、「富士通信機工業」として枝分かれ。その辺りまではボンヤリ知っていたが、ウイキペディアで調べると古川電機とドイツのシーメンス(ドイツ語読みでジーメンス)の合弁企業として頭のフとジを取り社名にしたことなど初耳であった。
会社も箱物も時代と共に移り変わってゆく。柔軟に飲み込んでいくことで変化してゆくところがこの町の強みなのかもしれない。
追:大洋ホエールズ、万年cクラスと言われながら、ブロンド髭のシピン、剃刀シュートの平松、松原等記憶に残る選手も多数でした。
それにしても川崎球場絡みのエピソ-ドは面白いですね。こんな楽しみ方は、田舎じゃ考えられません。今でしたら、黄昏の球場でビールを飲むなんて、お金を払ってでも体験してみたいですけどね。
ふらりと行ける距離にそんな場所があったのは今にしてみれば僥倖なんですが、時すでに遅し・・・