前回の続き。最終章です。
姉は小さい頃に東京に養女に行き、そこの両親を本当の親と信じていたそうです。
一人っ子として何不自由なく大切に育てられたけれど「あれもいけない、これもいけない」と言われることが多く、
とても窮屈な毎日で、「何故一人っ子なんだろう。兄弟がいたら良かったのに。。」という思いは、
遠い記憶にある長野の家とそこにいた子供たちへの関心へとつながっていきました。
高校生になったある日、姉は
「小さい頃一緒にいた子たちが今どんな風に成長しているのか知りたいので、写真があったら送って欲しい」
と、長野の家に手紙を書きました。
そして、その返事に同封されていた兄たちの写真を見た時、
「この人たちはただの親戚じゃない。兄弟だ!」と直感したそうです。
「この人たちが兄弟なら、私は一人っ子なんかじゃない!」
それを確かめたい気持ちは日に日に強くなり、高校2年生の時、10何年振りかに長野の家にやってきたのでした。
その時が姉と私の初対面でした。
まだ小学生にもなっていなかった私は何も理解してなかったと思います。
写真は残っているけれど、「東京から遊びに来たきれいなおねえさん」くらいの認識でした。
次に会ったのは私が中学2年生の時で、その時、既に姉は結婚しており生まれたばかりの子供もいました。
その次に会ったのは父のお葬式の時。
東京から駆け付けた姉は私の顔を見るなりガバッと抱きついてきて「可哀想な〇〇(私の名前)!」と言いました。
親以外の人に抱きつかれたのは初めてだったので、すごくビックリした(戸惑った)記憶があります。
父のお葬式をきっかけに姉と私の距離は急速に縮まり、交流が始まりました。
後に姉はその時のことを
「だってまだ高校生なのに父親が死んじゃうなんて、可哀想な子!って思ったの。そしたら思わず抱きしめちゃってた。」と言いました。
初めて会った時のことも「ビックリしたよ。ちっちゃい妹までいるなんて思ってもなかった」と。。
そして私は高校卒業後の進路を東京に決め、姉はとても喜び歓迎してくれました。
頻繁に姉の家に通い、離れていた間の空白を埋めるように色んなことを語り合いました。
姉は、そのまま私がずっと東京で暮らし、結婚をしたら姉の近くに住むことを夢見ていました。
「スープの冷めない距離に住んで、夕飯のおかずを一品ずつ持ち寄ったら二品になるよ♪」
そんなことを楽しそうに言っていた姉。。
けれど数年後、私は東京で知り合った長野県の人との結婚が決まり、その人の故郷に行くことになりました。
それを知った時の姉の嘆きは相当なものでした。
半分喧嘩別れみたいになってしまい、私は後ろ髪を引かれるような気持ちで東京を離れました。
今回の腎臓移植の申し出も、どこかにその時の贖罪のような気持ちがあったかもしれません。
「何故、私だったの。おかあさんは私のことがいらなかったの?」と、長野の母を恨んだこともあったと言っていた姉。
姉に会いに行った兄と東京の街を歩いていても「なんか緊張しちゃうんだよね」と言っていた姉。
「どうして?兄妹なのに?」と聞く私に、「だって、男の人とデートしてるみたいな感じなんだもん」と答えた姉。
いくら「実は血のつながった兄弟姉妹がいた」とわかっても、
生まれた時からずっと生活を共にした記憶がないというのは、それほどの隔たりを生むのだと感じました。
だから姉は、1ヶ月間という入院生活を「妹と隣同士のベッドで」と望んだのでした。
そして「一卵性の双子みたいですよ」「奇跡的に相性が良い」という医師の言葉や、
拒絶反応が全く出ないという事実を体験することで、
やっと「本当に同じ血が流れているんだ」と実感できたのだと思います。
姉は「私の身体、〇〇(私の名前)の腎臓を“異物”だと思ってないんだね」と笑って言いました。
手術後は何度か通院して検査をしましたが、特に異常はありませんでした。
ただ私の方は、大きな傷によりウエストラインが崩れたのと、
手足に鳥肌がたったような状態が治まらずザラザラになったのが、女性としては気になるところでした。
手術中に見たあの夢を思うと、私の身体は鳥肌が立つほどの思いをしたのだろうなぁ。。と思います。
検査の時に肌のことを少し聞いてみたのですが、なんとなくスルーされた感じでした。
まぁ、お医者様は日々命と向き合っているので、生死にかかわるような症状でなければ問題にもしないのでしょう。
姉の方は、通院はずっとしなくてはいけないものの、
手術前の少し階段を上っただけでも息切れするような状態からは解放され、
旅行にも行けるようになったし、食事制限もなくなりました。
あの時、同じ時期に入院していた人たちの中には透析に戻ってしまったという人や、
腎臓に菌が入ってしまって入院治療しなくてはならなくなったという人もいたようなので、
それを考えると私たちは本当に運が良かったのかもしれません。
医療の素晴らしさに感謝です。
そういえばこんなことがありました。
退院後、私のお腹の傷を見た夫が「医者ってすごいなぁ。。」と、しみじみ言うので、
医者の技術に感心しているのかと思ったら、続いた言葉が「よくおまえの身体をこんなに切れるな」
これには思わず吹き出してしまいましたが、夫の素直な感想だったのだと思います。
移植手術には双方の家族の理解と協力が不可欠です。
そういう点でも私たちは恵まれていたと思うし、支えてくれたすべての人たちに感謝しています。
あれから約20年。
姉も私も、それぞれの場所でそれぞれの家族と元気に暮らしています。
今はコロナで会えない日が続いているけれど、
それまでは夏になると毎年のように姉の家族が私の家に遊びに来ていました。
早くまた会いたいね、とスマホでやり取りしています。
私のドナー体験のお話はこれで終わりです。
医師への不信からスタートした私の腎臓移植体験は、最後は医療への感動と感謝で終わりました。
最後まで読んでくださりありがとうございました。
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