コネリンのイージーライフ”テキサス”編

テキサス州は最南端ロックポートで、今度は色んなフィッシングにチャレンジな日々を綴ります🎵

俺の人生 まぁ〜 最高かも

2019-01-20 03:23:03 | ライフスタイル
今日は暇だから過去を少し振り返りながら記してみる 

過去を振り返る 思い出すということはかなり年とったせいかも   そう通りであろう

今年で70を迎える とも子と一緒になって35〜36年が過ぎる 何のトラブルもなく大きな言い合いも無く我々はいつも笑っている 昨日もそうだったし何年も前もいつも笑っていた これだけでも良い人生といえるだろう

思えばコネリン 若い頃っと言ってもとも子と知り合ったときにはすでに34くらいになっていたから若い頃とは言えないが 

食うためには何でもした キッチンヘルパーからオフィスの掃除 引越し会社の荷物運びまでーーーー

自分で言うのも何だが コネリン 一生懸命働くということが大嫌いのはずである いつも心の隅にあるのは Not hard work, but smart work という言葉である

これにはバックグラウンドもある 日本の学校を出て就職したのがある商社 当然セールスマンには毎月のノルマというのがあった そのノルマを月の初めの10日ほどでこなしそれ以上成績を上げることは給料が同じであればアホらしいと考えていた まったく出世欲なども無かったような気がする

10日ほどでノルマをこなしたあとは毎朝出勤したあとは喫茶店や麻雀店やテニスコートで時間を潰していたものだ
上司からはうさんくさい目で見られていたんであろうが気にもしなかった

その後は別の商社に転職 そこではベイシックな給料プラスコミッション ここは楽しかった 働いた分だけもらえるのである
半年も日本で働いたあとマニラに転勤命令 バンコックなど数カ所のアジアを経験して最終的にはシアトルに派遣 

この商社 今ではもうないが(コネリンがシアトルに来たあと数ヶ月で潰れてしまった)なんとも楽しい会社であった 
社長というのがなんとも太っ腹 社員には ”売るものは何でも良い 買ってきて売り利益を出せ それだけで良い” といつも言っていたことを思い出す

それこそ社員の中には焼き鳥屋用のスズメやうずらの鳥を輸入してた御仁もいたし コネリンはシアトルで脳に埋め込むような圧力計や計測機器を買い日本の工業技術研に商品化し収めていた そう 買って売り 利益を出せば良いのである

またこの商社 社長の方針で接待費を使うことを進める いわゆる飲ませろ食わせろ であった
まっ こんな楽しい方針であったから最終的に潰れてしまったんですがね コネリン20代だったから海外派遣も楽しかった

こんな20代を過ごしたせいか 真面目に一生懸命働くと言うことが極端に嫌いになったのも事実 それこそ”スマートワーク”

でも 食うためには何でもできるけどね


とも子と知り合って結婚してからは”危機感”を感じた はたして何の日本でのバックグラウンドも通用しないこのアメリカで生活できるものだろうか とかーーーーー

とにかく食わなければならない とも子もまだ留学生であったし働く許可書も無かったしーーーー(結婚後グリーンカードを待つ間にはワーキングパーミットはすぐ下りた)

その後 とも子はレドンドビーチで小さな美容室をオープン その後はトーレンスにて2軒 イーストコーストに1軒 これが日本のバブルと重なりかなりの盛況 毎月の収入も増えコネリンはそれを住宅に投資 一時は何件も家を保持することになった ちょうど住宅ブームにこれまた乗ったのである

まっ 昔のことであるから住宅自体は安かったが ある一つの家などは2年半で購入価格より3倍で売れた記憶もある

その後は住宅投資を控え株式投資に 

でも いつも我々が話すことの中に 我々はもともと裕福な家族の出でない 裕福になるより毎日がカンファタブルになるような生活を ということで裕福な生活を拒否 もちろん老後を考えた上であるがバランスを取りながら裕福層みたいな生活を味わった
それこそジャガーに乗りコルベットに乗りレンジローバーなども コネリン39歳にしてセスナを購入 数年後にはキャビンクルーザーまで とーーーーー

まっ 尻切れトンボの文章だが コネリンの人生 まぁ〜最高 

今ではそんなことはもうできないが若い時に味わった”裕福層の真似事”で思い出と共に老後は今以上に楽しく生きられる



 ほんと何もかもに ありがとう なのである 
コメント
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