Catnap Room of にゃんこ

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつけてます♪

私にできること。

2011-03-20 10:03:01 | 雑記

未曽有の大震災から1週間。

報道される内容は悲しく辛い話が多いのだが、日本人の底力は、必ずや報道の内容を覆す力を持っていると信じている。  

私たちが日本の未来を期待せずして、国が存続できるわけがない。

 

 *******

 

 私が勤めている会社 (不動産関係) でも、この一週間は、いろいろな影響を感じさせる出来事が多かった。

通常であれば、3月といえば繁忙期も頂点を超えつつある時期である。 

学生の卒業や社会人の転勤で、それまで住んでいた部屋を解約し、入れ替わりに、4月からの新入生や新入社員たちが新しく部屋を契約する。 

そんな新陳代謝が活発な時期の後半で起こった大震災。

 

 被災した方が、関東にいる縁者を頼って部屋を探している。

透析が必要な方が、大きな病院に通える場所で部屋を探している。

空いている部屋があれば、一刻でも早く入居させてあげたい一心で、各業者間とのコーディネートを毎日ものすごいスピードで続けていく。

私にできることは、職務を全うすること。

 

 事務所は、いままで計画停電の輪番にあたっていない。 

仕事をする中で、これは非常に幸いなことである。 

ちなみに自分の家はほぼ毎日律儀に停電しているらしいが、自分は家にいないのでまったく気にならない (笑)

家の中ではちょっと厚着している程度で、暖房はつけなくても大丈夫。 

幸か不幸か、帰宅も遅いし、疲れてもいるので寝るのも早い。 

 

 もともとチャリンコライダーなので、30キロ離れた母の元へ行くとき以外は、車も不要。 

ガソリン待ち渋滞を横目に、自転車でその横を駆け抜ける。 

仕事上ではちょっと不便に思うこともあるけれど、5~6キロの距離なら自転車が大活躍だ。

私にできることは、今ある資源を大切に使うこと。

 

 

昨日あたりはだいぶ解消されていたようだが、日用品や保存食品の品薄状態にはびっくりでした。

モノがなくなると不安になるのは人情でしょうが、関東の品薄がそんなに何週間も続く道理がない・・・と信じて、ウチにある乾物類を確認し、これでどんなものが作れるかをゲーム感覚で考えている間に、スーパーの食品棚に品物が戻ってきた(やっぱりね/笑)

私にできることは、必要としている場所に物資が届くように努力すること。

 

 一昨日、有志一同で義捐金を振り込んできました。 

今、寒くて震えている方々が暖かく過ごせるように。  暖かい食べ物を食べられるように。

そして一日でも早く、東北の地が、そして不安に思っている日本人が活力を取り戻せるように。

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北・関東を襲った巨大地震 2

2011-03-13 14:18:30 | 雑記

一夜明け、3月12日。

辺りが明るくなるにつれ、悲惨な現状がますます姿を現すこととなる。

新聞の一面には、津波にのまれてゆく町の写真が一面に載っている。

 

 

この日私は、唯一安否確認が出来ていなかった家族・母のもとに行く。

帰宅難民だった兄たちの状況もメールで届きだしたので、最後の安否情報を兄たちに送ろうと思ったわけだ。

 

 都内に通っていた友人知人は、それぞれの仕事先にとどまった人が多かったが、その状況もいろいろである。 

昔々、同僚の旦那さんが、東京都四ツ谷から、千葉県市川まで、 「この日を想定して」 歩いてみた、という話を聞いたことがある。 

まさか本当にそんな日がくるとは、夢にも思っていなかったが、実際にはその旦那さんの意識の方が正しかったというべきであろう。

 

 母がいる施設がある場所は、地震発生後、停電と断水に見舞われていた。 

復旧したのは翌日午前2時頃だというが、身体の不自由なお年寄りたちをかかえ、不眠不休で心と体のケアを続けてくれた職員の皆様には感謝のあまり、適当な言葉も見つからない。 

隣には病院が併設されており (病院には自家発電がある) 、そのおかげでいろいろな協力を得ることができたので、誰一人怪我をすることも、パニックになることもなく、この難局を乗り切れた、そして数々の大きな地震や戦争を経験してきたお年寄りたちの不屈の精神が、自分たちを支えてくれた、と謙遜して言ってくれていたのだが、その努力と優しさにはただただ頭が下がるばかりである。 

 

 本当に、本当に、母を守って下さって、ありがとうございました。 

その母は・・・・・何事もなかったかのように、気持ちよさそうに眠っておりました。

 

 ********

 

 東北地方太平洋沖地震。

2011年3月11日  14時46分発生。

太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード8.8 (のちにマグニチュード9.0と修正される) の巨大地震。

最大震度7  (当地は震度5強)

 

 被害は・・・・・・まだまだ拡大中。

私にできることは何なのだろう。

 

被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げるとともに、犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東北・関東を襲った巨大地震 1

2011-03-13 14:18:18 | 雑記

2011年3月11日 午後2時46分。

その時、私は事務所ビルの4階にいた。

数日前にもちょっと大き目の地震があったばかりだが、 (これも三陸沖が震源地だった) 正直なところ、今度も震度3~4で、すぐに収まるだろうとタカをくくっていた。 

 

 ゆっくりとした横揺れがだんだん大きくなっていく。 

狭い事務所にぎっしりおかれたキャビネットが大きく前後に揺れ始め、まもなく開放式の書棚から重いファイルが落下。 

続いて棚の上に置いてあった観葉植物の植木鉢が落下。

 

 

会社のブレーンであるホストコンピューターを押さえながら、 「とうとう来た!」 と覚悟を決めた瞬間である。

 

 この日は金曜日だったのだが、いつものことながら、営業の男性陣4人は全員外出中。

歴戦の女性陣4人のうち、1人が振替休日、もう1人も体調不良で休みだったので、室内には私を含めて女性が二人だけ。 

さすがにビビった。

 

 私たちがいるビルは、ウチの会社が管理代行しているので、大きな揺れが収まると同時にビルの地下1階から地上6階まで走り回ることになる。 

もちろんこれは職務である。 

いわく、雑居ビルでもあるこのビルには、たくさんの人が出入りしているはずなので、その目的は、この場にいるお客様たちの安全確保にある。

つい先日取得したばかりの 「防火管理者の資格」 が如何なく発揮されてしまったことは言うまでもないが、こんな実地訓練は正直言って勘弁してほしい。

 

 それぞれのテナントの責任者たちは、皆デキた人たちばかりなので、すでに階段を使ってお客さんの避難誘導を開始してくれていた。

おかげで私は、火元の注意喚起、閉まった防火扉の処置、管理室で鳴り響いているブザーの解放と、結構落ち着いて処理完了することができた。

その間も余震は絶え間なく続いていたわけだが、この頃には歴戦のトシマ女性2人には、すでにク度胸が・・・・(以下略)

 

 ********

 

 地震直後から、いつもは鳴り響いている電話の音がピタリと止む。 

電話が不通となり、妙に静かで不気味な 「その後」 の始まりである。 

 

 パソコンとラジオで情報収集をしつつ、外に出ている営業マンへ安否電話をかけるが、やはり誰にも通じない。 

しょうがないので、とりあえずは全員にメールを送りつけておいたのだが、それぞれの端末に受信できたのは、どうやら1~2時間以上も経った後だったらしい。 

しかも、返ってくる返事は、 「道路渋滞で、いつ帰社できるか見当もつかない」 との内容ばかり。 

その時点で、各自の自宅直帰を許す。  (すでにこのころの私は司令塔/笑)

 

 さて、電話も通じないことだし、営業マンも帰ってこないので、か弱くない私たち2人も、いよいよ帰宅することを考える。 

時間はすでに19時頃。

私はチャリ通勤なので帰宅難民にはなりようもないわけだが、この数時間を共に乗り切った同僚女性は、会社から約10キロの場所に自宅がある。 

もちろんその時点ではすべてのJR・私鉄が止まっており、駅前のタクシー乗り場は長蛇の列だ。 

アラ還 (笑) の彼女は 「歩いて帰る」 と言うのだが、それをなんとか説き伏せて、まずは私の家まで一緒に歩いてもらい、なし崩しにウチに泊まらせようとしたのだが、なおも自宅に近づこうとする帰巣本能旺盛な彼女 ( 「家族が心配」 、というが、ここで歩かせたら逆に心配かけるだろー、と思う私の心の声は届かない/笑) に負けて、それならばと、何時になるかはわからないけど、とりあえず私の車に乗せて裏道抜けまくりで送っていくことにした。 

こんな時には裏道も混んでいるかと思いきや、結構順調に走り切った。

 

 *********

 

 さて、私が密かに怖れていたのは、自宅の惨状である。

特に、現在足場が組んであるマンションなので、なんかとんでもないことになってるんじゃないかと心配しつつ足を踏み入れたのだが、思ったより家の中はひっくり返っていなかった。

耐震偽造されていないことが証明された瞬間である。 → 過去記事

唯一、ガスは自動停止していたが、マイコンメーターの復旧などは朝飯前の管理会社社員 >私だ。

 

 兄には地震発生直後に、 「私は大丈夫」 とだけメールしておいたのだが、帰宅後は、テレビを見ながら、友人知人からの安否確認メールに返信したり、こちらから送信したり。 

ただ、震源地に近い場所にいる友人には、ちょっと控えざるを得なかった。 

本当は一番送りたい気持ちなのではあるが、通信規制や停電状況のことを考えると・・・・。 

 

 その夜は、余震の影響もあったのだが、それ以上に、テレビに映し出される東北地方太平洋沿岸の状況に心が痛み、なかなか眠りにつくことができなかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする