2017年も、すでに1月4日となりました。
本日は、年始休暇の最終日。
ああ、明日からまた怒涛の日常が戻ってくるのか・・・・。
さて。
今年の初詣は、パワースポットとも言われている、増上寺へ行って参りました。
・・・・・というより、昨年ハマった 「真田丸紀行」 の続編で、徳川将軍家の墓参に行きたかったというのが、本音だったり (笑)
家康公の墓は、本人の遺言により、久能山東照宮に葬られ、その後日光東照宮に勧請されたと伝えられております。
( 久能山へは数年前にお参り し、日光にも何度か行っておりますが、このブログを始めてからは、日光東照宮まで行ってないんだよなぁ。 また行かなくちゃね/笑)
そこで、真田丸で星野源さんが演じていた、徳川2代将軍・秀忠公 (台徳院) の墓参を思い立ったわけです。
(現在は通期で徳川将軍家墓所拝観ができます。)
ここは、徳川15代将軍のうち、6人が祀られている、徳川家の菩提寺ともいえる場所ですよね。
ちなみに、もう一つの菩提寺ともいうべく上野寛永寺にも6人が葬られております。
御成門駅から地上にでると、そこは 「箱根駅伝」 のルートのため、翌日からの交通規制横断幕がはってありました。
うーん、駅伝も生で見たかったなぁ、2日にすべきだったかなぁ (笑)
もちろん、初詣なので、本堂への参拝が最初なんですが、参道では日光猿軍団の猿が竹馬の披露中だったり、美味しそうな出店がたくさん並んでいたりで、誘惑多し。
増上寺の境内は現在でも十分広いのですが、戦前 (戦火で焼かれる前) は、寺の南北にある2つのプリンスホテル全体を占めた広大な敷地に陵墓が点在していたわけです。
それが戦争の被害を受けたのち、昭和33年に鋳抜門 (もともとは6代将軍・家宣公の宝塔前の唐門) の後ろの一角にまとめて改葬されたとのこと。
寛永寺に葬られている将軍家のお墓は当時のままなのに・・・と思ってしまいますが、それも含めて日本の歴史というべきことなのでしょう。
秀忠公のお墓は、霊廟もある立派な墓所でしたが、太平洋戦争の戦火で焼かれ、現在残っているのは総門のみ。
木造だった宝塔も失ったため、改葬後は、御台所の崇源院 (江) のお墓に合祀されているとのこと。
もともと 「かかあ天下」 のご夫妻だったようですが、お墓も居候とは (泣)
なーんか、当時は見向きもしなかった大河ドラマ 「江」 もみたくなったな (笑)
時は飛んで幕末14代将軍・家茂公の宝塔の隣には、菊のご紋がついた、和宮様(静寛院)の宝塔が寄り添うように建っています。 合掌。
パワースポット、ということであれば、増上寺から歩いていける場所に、 「愛宕神社」 がありますので、こちらにも足を延ばします。
寛永11年春、3代将軍・家光がこの愛宕神社下を通りかかった際に、満開の梅を目にされ、 「誰か、馬にてあの梅を取って参れ」 と家臣に命じられたとのことですが、この愛宕山の石段は急こう配でしかも長い。
これを馬で駆け上がるなどというのは無理だと、家臣たちは一様に躊躇していたところ、四国丸亀藩の家臣・間垣平九郎が馬にて石段を上り下りし、家光公に梅を献上したそうです。
その後、平九郎は、家光公より 「日本一の馬術の名人」 とたたえられ、その名は全国にとどろいたと伝えられております。
(ちなみに、近年これを再現した人が、実際にいたそうです。 驚き!)
ここは、勝海舟と西郷隆盛が江戸の街を眺めながら、江戸無血開城を誓った場所、ともいわれておりますね。
86段の急こう配な石段は、 「出世の石段」 と呼ばれ、大変なご利益とパワーが授かる階段と言われておりますが、現在は近くにエレベーターもあるし、傾斜の緩やかな 「女坂」 もあります。
本殿にお参り後、旅行にご利益があると言われる 「太郎坊社」 へもお参り。
今年もたくさん旅行ができますように (笑)
帰りは 「出世の石段」 を下りないほうがいいようですよ。
桜田門外の変で、井伊直弼を襲撃した士たちの集合場所がここ愛宕神社で、彼らはこの急な階段を下りて襲撃に向かったようですが、志こそ遂げたものの、出世はしていませんから。
ちなみに私、エレベーターで昇り、出世の石段を下りて参りました。
いいのいいの、もう出世しなくても (爆笑)