Catnap Room of にゃんこ

心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつけてます♪

あの日を忘れない② ~ 双葉町編

2023-03-18 15:51:58 | 旅行
福島県の双葉町は、 2011 年の東日本大震災に伴って発生した、福島第一原子力発電所事故の影響で、その直後から全町避難を強いられ、以降 2022 年 8 月まで帰宅困難区域に設定されていた町である。

  

地震、津波に加えて、放射性物質の拡散という複合災害に見舞われた住民たちは、着の身着のままで避難し、その後 10 年以上も自宅に戻ることが出来なかったのだから、その状況は惨憺たるものだったと思います。

2020 年 3 月に常磐線が全線開通、制限はあるものの、住民以外の立ち入りも可能となり、 2020 年 9 月には、この特殊な災害を後世に伝える、 原子力災害伝承館 双葉町産業交流センター も開設された。

 

いつか機会があれば、この場所も訪問したいと思っていたその機会は、震災から 12 年後の 2023 年、奇しくも 3 月 11 日に訪れる。

双葉駅の周辺は、津波の被害には遭っていない。
しかしながら、住民の避難後、放置された家や店舗などは荒れ放題となってしまい、その後やむなく取り壊され、更地となっている場所が多い。
原子力災害伝承館へ直通するシャトルバスから見た窓外は今まで見てきた被災地の姿とは、また違う印象を受ける。

原子力災害伝承館で数々の展示や資料、生々しい映像等を見ながら、 12 年前にこの場所を突如襲った放射性物質からの避難状況、そして福島第一原子力発電所内で行われていた 「人類を守るための死闘」 の有様は他の地域では語られない分、全てのことが心に突きささる。

3 月 11 日。

  

この日は今後の復興拠点となるであろうこの場所でもメモリアルイベントが行われる。
日中のトークセッション、夕方からはピアノやフルートの生演奏、夜には追悼の花火やキャンドルナイトが行われる。



午後 2 時 46 分、この場所に居合わせた多くの人々と共に、穏やかな海に向かって黙祷。
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あの日を忘れない① ~ 陸前高田編

2023-03-18 15:21:11 | 旅行
昨年 10 月に青森旅行をした際、もう一度やってくれないかなぁ・・・・と呟いた JR 東日本の乗り放題券が、 3 月にファイナルと称して発売されると聞き、心がざわついた私である。
3 月は私の職場も繁忙期なのだが、まぁ一日ぐらいなんとかなるだろうと休みの申請を出したら、何事もなく受理された。
ならば行くしかないでしょう。

陸前高田には 2013 年の 11 月 に一度訪れている。
その時はまだ震災の傷跡が色濃く残り、気仙沼港の周辺には、津波に削られた家の土台があちこちに残されていた。

当時、レンタカーで陸前高田へ向かった道には、現在 JR 大船渡線の BRT が走り、その車窓から見える整然とした街並みは、 12 年前から新たに刻まれている新しい歴史を見ているようで・・・・なんとも複雑な想いが去来する。



BRT の駅 「奇跡の一本松」 の前には、東日本大震災津波伝承館 「いわて TSUNAMI メモリアル」 が建てられ、地震と津波の恐ろしさ、そしてそれに立ち向かう人間の生きる力が、記録や資料として展示されている。



10 年前に訪れたときにも無残な姿を現していた旧・道の駅高田松原 「タピック 45 」 は、震災遺構として残されている。



この建物の海側は当時イベント会場となっており、建物の屋根は階段状の観客席になっていた。
あの日、この階段を最上段まで駆け上がり、 3 名の命が救われたことは、今回初めて知りました。

奇跡の一本松を救ったといわれるユースホステルの跡も、今なおその姿をとどめています。



海を望む場所に建てられた 「海を望む場」 の献花台。



その向こうには、無数の松の若木が植えられています。
この松が成長するにはどのぐらいの年月が必要なんだろうか・・・・・。



穏やかな海に向かって黙祷。
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さよなら PARCO

2023-03-01 18:35:07 | 雑記
以前書いた記事 から 2 年、なんだかこの日まで、あっという間でした。
最終日の 2 月 28 日、偶然にも津田沼での所要があり、午後 4 時頃に駆け付けることができました。

 

大規模区画整理の中で建築されたファッションビル PARCO は、昭和 52 年(1977 年)この地に誕生。
当時、学生だった私は、ことあるごとに店内をフラフラし、お姉さんたちが身に着けるお洒落な洋服やバッグ、靴やアクセサリーを羨望の眼差しで眺めていました。
新卒で就職するとき、初めて買った化粧品もここで買ったんだよなー。

誕生からまる 45 年。
子供だった私もすっかりバァさんになりましたが、間違いなく、この場所は私の青春でした。

最終日 28 日、JR 津田沼駅快速ホームの一角に「ありがとう つだぬまパルコ」の駅名標が設置されたそうですが、あまりの人気で行列ができ、ホームの安全が危ぶまれたため、午後 3 時で改札の外に移動されたそうです。
その駅名標がこれ。

 

いいなぁ、JR 東日本の心意気を感じるわ。

最終日の店内は、品物は少ないのに、人はいつにも増して多かった。
きっとみんな私と同じ気持ちでこの場所にいるんだろうなぁ。

それぞれのお店にたくさんの思い出があります。
レストラン街にも、たくさんたくさんお世話になりました。
友人と行ったり、同僚と行ったり、元気だったころの父母と行ったり。
思い返せば、楽しかった時間ばかりが思い出されますね。

 

今後この場所がどうなっていくのかはまだわからないけど、駅前の一等地、期待を込めてこれからも応援していきたいと思います。

午後 9 時、閉店セレモニーとして、壁面には PARCO からの感謝の言葉が投影され、「津田沼パルコはとても幸せな 45 年間でした。ありがとうございました、バイバイ!」というアナウンスが流れると、最後を見届けようとペデストリアンデッキに集まった多くの人々からは、大きな拍手が送られたそうです。

共に歩んだ 45 年間、私からも「ありがとうございました!」
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