前日の鬱陶しい天気とは打って変わった青空のもと、日野新選組資料館めぐりに行ってまいりました。
きっかけは、 『井上源三郎資料館』 で8月から公開されている沖田総司の直筆書簡。
沖田の書簡は、代筆 (笑) の年賀状を含め、7通現存しているそうですが、その中の1通のみ、自分の名前「総司」 が 「総二」 と記してあるんですね。
この書簡のおかげで、 「総司」 の読みは 「そうし」ではなく 「そうじ」 であるということが証明されたという貴重なものです。
それにしても 「新撰組」 だったり 「新選組」だったり、当時の人たちには漢字に対するこだわりってものがあまりなかったんでしょうかね。 音があってりゃそれでよし、みたいな (笑)
で、 “この書簡を見に行きませんか” 、と沖田隊長にお誘いいただいた瞬間、日野で 数々の失策 を呈したヒラ隊士の私、斉藤一に 「お送りしましょうか」 と言われ、途中銭取橋で粛清された武田観流斎のごとく、なにかコトが発覚したかとビクビクしつつも、大喜びでご一緒させていただくことにいたしました(笑)
が、日野のほとんどの資料館が毎月第一、第三日曜日のみの開館という狭き門。
その狭き門と各々の諸事情をかいくぐって実現したのが、公開終了も近づく10月4日のことでした・・・・。
さて。
沖田隊長、そして白虎隊を語らせたら止まらない (らしい・・・/笑)和紀さんと日野駅で待ち合わせ、まずは源さんの菩提寺 『宝泉寺』 へ。
沖田隊長が持参してくれた線香を捧げ、墓前に手を合わせてから、『井上源三郎資料館』 にむかう。 こちらは約5年ぶり2度目の訪問。
先の 「総二」 の書簡も興味深く拝見できましたが、去年判明したばかりの新事実・源さんの首が埋葬された寺の所在地の説明を聞くことができたのが、嬉しかったですね。
埋葬された寺が早い時期に廃寺になっていたため、なかなか寺の特定ができなかったものの、この事実が判明したおかげで、かの地よりそのお寺跡地の土を日野に持ち帰ることができたそうです。
源さんの魂はとっくの昔にこの日野に戻ってきているであろうけれども、なんだかホッとする話ですよね。
日野の資料館は開館日も少ないが、閉館時間も早い。
『井上源三郎資料館』 も、 『佐藤彦五郎新選組資料館』も午後4時で閉館なので、それに合わせて 『日野宿本陣』 を見学。
ここの外観は毎年眺めているが (笑) 、中に入ったのはやはり5年ぶり。
初めて訪れた時、歳三が昼寝した部屋に萌えて、自分も同じように寝っころがってみたことが懐かしい(爆)
『佐藤彦五郎新選組資料館』 は、日野宿本陣のすぐ南にある。
ここは3年前の開館直後に訪れたことがあり、その時は当時特別公開されていた、市村鉄之助が持ち帰った土方歳三の写真(歯型つき♪) に興味津々だった (笑)
今回は、近藤勇が江戸にいた頃から持っていた短銃に想いを馳せる。 刀にしか興味が無さそうなイメージの近藤さんが、どういういきさつで短銃を手に入れ、この短銃をどう扱っていたのか・・・と想像するとなんだか不思議なイメージが沸いてきてしまいます(笑)
それと! 私にとっての衝撃の新事実が一部 (笑)明らかになったんですよっ!
実はこの資料館に 「新選組始末記」 の初版本 (昭和3年発刊)が展示されているのですが、その見開き部分に写真が入っているそうです。
どういう写真かというと・・・・・私がかつてたった一度見たことがある写真。
しかし、もう何処で見たものか記憶にもなく、ただ印象だけが非常に強くてもう一度見てみたいと熱望している写真。 それは・・・。
見渡す限り何もない野っ原の中に聳え立つ、板橋の新選組供養塔の写真
この初版本のその写真ページを開いて展示して欲しいと熱望する私でしたが、出自がわかってすっきりしました。
何時の日かもう一度、この目で見てみたいなぁ・・・。 本当に衝撃的かつ感動的な写真なんですよぉ・・・。
☆☆☆
その後、佐藤彦五郎さん・ノブさんが眠る 『大昌寺』の墓参を経て、新選組一番隊長率いる精鋭たち (笑) は、某長州系アジトへ踏み込んだつもりだったのだが、またしても美味しく飲み食いしてしまい、すっかりいい気分になって家路についてしまいましたとさ・・・(笑)
楽しい1日にご一緒いただいた皆様、どうもありがとうございました!