私はこの映画を2度観ている
初めはジャック・レモンが出ているということで、二度目はもう一回観たいと思って、
その時、もとになった本を読もうとは思わなかった
なぜなら映画から受け取ったものがあまりに深く、大きくて、己の中で消化しきれなかったから、
そして、今月、暑い東京で、出会った
ジャーナリストのミッチ・アルボムが書いた、自身も含めたドキュメンタリー
いわば、難病に侵された恩師との最後の授業における卒業論文だ
映画でも涙が出た それはストーリーではなく、モリー先生が愛弟子だけでなく
すべての人へメッセージを伝えていて、それが深く、深く胸にささったのです
それは今なら言葉にできるが、そのころは何かわからないが重しになっていたもの、
そんなものをやわらかくしてくれるもので、
その時は何かわからなかったが、やんわりを伝わる何かを感じただけだった
そして出会った翻訳本
映画も十分にモリー先生の意志を伝えてくれていたが、
役者やカメラや、演出家や、そのほかもろもろのものが介在しない、
その直接の言葉が、…いやただし、本にも翻訳者や編集者がいるが、
それでも、中にたつ人が少なくなって、聞こえてきたモリー先生の言葉に涙が出た
特にここに、
私は小学6年生の時に母を亡くしている
なんで死んだのか?? なんでいなくなったのか?
父は自分も大変だったせいか、何も言わなかった
それは後添えを迎えたときも同じで、ただ「いいか」とだけ聞いた
今ならわかる
私は 寂しくて、つらくて、悲しくて、切なくて、過ごしてきたのだ
大人になるまで生きていてくれた父親や姉が亡くなったのもとても寂しいことですが、
彼らからは十分に愛情を注いでもらったと感じている
それぞれの寿命で死んでいったものにそれ以上の悲しみをいだくことはないのだろうと思う
だが、母親は…私はもっと一緒に居たかったんだろう
モリー先生は70年たっても寂しいと言っている
私はまだ50年だ 寂しくていいんだと思えたら涙がでた
いない時間がはるかに長くなって、もう顔も声も覚えているものはすこしでしかない
でも、今でもいてほしかったと思っているのだろう
アルボムが火曜人としてモリー先生の講義を受けてくれたから、
この本が生まれた そしていろいろな言葉に翻訳されて世界中に響いているのだろう
本は素晴らしい 本はいい
この本に出合えて、その幸運に感謝しています