札幌の中学生が自殺してしまった。痛ましいニュースだ。
いじめを苦にした遺書を残しているという。
文部科学省が児童・生徒の問題に関する調査で用いるいじめの定義は「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」で、「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」としている。(ウイキぺディアより)
どういう状況があったのかは定かではないが、この場合、本人が「いじめられていやな思いをした」と書き残しているのだから「いじめはあった」のだ。
わからなかったとか把握できなかったということは、いつでもあることで、だからこそ、今回のような悲しい結末が出てくる。
この事件に関わりを持った人たちの心がいやされる日が来るのを祈るばかりだが、
どうもひっかかるのだ。
連休直後、学校は全校集会を開いた。これは当然のことだが、校長が命の尊さを訴え死んでしまった少女の父親のメッセージを読み上げたという。
その後、カメラの前に現れた校長の表情にも、ざらつくものを感じた。
ネットを観ていると、この少女の保護者と学校に信頼関係が築けているからだということが出ていた。
信頼関係…?
わが子が死んでいるのだ。
しかも病気や事故ではなく、自殺だ。
目の前に学校を苦にして死んでしまったわが子が横たわっているのだ。
どうして、学校との信頼関係を保っていられるのだろうか。
男親は違うのだろうか…。
私なら、状況を受け入れることがまずできないだろう。泣くことがあるのだろうか。
泣きだしたら止まらないだろうと思う。
いつくしんで、悩み苦しみながらやっとここまで育てたわが子だ。
自分を悔やんで悔やんで仕方がないだろうと思う。
事件から二日もたたないときに、この親御さんは
死んだ娘の同級生たちにメッセージを届けている。
私がざわつくのはここだ。
あなたは、なぜ、娘のためだけにそこにいないのか。
そのお子さんにしてあげられる最後のことではないか。
親がなりふり構わず自分の死を嘆き悲しんでくれる。
それで、彼女は救われるのではないか。
この少女には、もしかしたら学校にも家にも居場所がなかったのかもしれないと感じた。
新聞・テレビ・ネット、情報は偏ったものだと思う。わからないこと、知らないことばかりだと思う。そのうえで非難をしてはいけないのかもしれない。
でも、同じ年ごろの子どもを持つ親として、この保護者の方にききたい。
あなたが今やるべきことは、お子さんの死を悲しむことだけではないのか。
金曜日、札幌市内の中学校・小学校の学校長が教育委員会に集められた。
たまたまテレビを観ていたら、末っ子の通う小学校の校長の姿があった。
この校長先生、事務能力のようなものは素晴らしいのですが、どうも子どもと向き合う部分がいただけないと感じている。笑っていることが少ないのです。
外でであっても挨拶が返ってくることがないのです。
教室で傷ついた子どもは、どこでその傷をいやすのでしょうか。
それは、他の先生方の暖かい笑顔や、いつでも話を聞くよというムードではないでしょうか。あいまいな言い方で申し訳ないのですが、そういう「空気」のような部分が、わが子の学校長には足りない感じがするのです。だから、テレビに映った校長の顔を観ながら
「あなたはそんな集まりに出るよりも、子どもの中に入って遊んで話を聞いて、学校周りの掃除をして見せたほうが、はるかに子どもの救いになるんじゃないのかしら」と思っていました。
大人の形式通りには子どもは動きません。
自分をみて!!と彼らは叫んでいるのです。
言葉が足りない部分が多いと思います。誰かを傷つけていなければいいと思いますが、言いたかった。悲しんであげている人はいるのか!と…。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/donai/261308.html
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