ちょいと遅い時間に行ったら、金色の入った皿ばかり頼んでしまった。
たまにはいいかあ~~?
ティラミスパフェを頼んだのは、娘ではなく旦那。
娘は「芋もち食べたい!」と、鮨屋で芋もちほおばっていました。
いやしかし、美味しゅうございました。
次女が帰ってきた。
大学は9月いっぱい夏休みなので、まだまだゆっくり充電期間だ。
だが、早いもので彼女も3年生。そろそろ就活を考えなければならない。
長男や長女の姿を見てきている彼女は、世間でみんながやっている就活をしようとしている。
己の力と比べて、なかなかしんどそうな時間になるようだ。
でも、就活をせずにここまで踏ん張っている兄や姉の姿をみて
「あれはあれできつい」 と、はっきり受け止めている。
生きていくのはどんな生き方でも、やっぱり大変で、大変だからこそ自分の好きな道、好きなやり方で進むしかない。
それはわかっているようだ。ならば親は何も言うことはない。
がんばって!
ところで、次女に限らずだが、
末っ子と旦那と三人の暮らしに誰かが混ざると、その違和感?というか、
そのなんとも言えない複雑さに快感?がわいてくる。
これだよ!これ!!ていう感じ。
末っ子には悪いが、一人っ子の生活って単純なんだ。
何かあっても、末っ子に合わせるか合わせないかのこの一点でしかない。
それが上の子どもが一人でも混ざると、別の道があらわれてくるような気がする。
実は、これがちょっと居心地がいい。末っ子一人だけの時には感じられない“何か”だ。
次女がいるのは一週間。
「とにかく魚が食べたい」というから、一度は回転ずしに連れて行かねばいけません。
それはそれで、なんとなく楽しい。
「花子とアン」を観ている。
今朝の村上印刷さんの言葉・・・・
「生きているから、喧嘩もできれば仲直りもできる」
村上印刷さんは、弟を関東大震災で突然失った。
ああ、涙が止まりません。
もうこの名前が出てきて目を剥いてしまった。
なんのことやらわからない方がほとんどだろう。
私は知っている。この水が箱買いされて、実家に山とあったからだ。
上の子どもが小さいころからだから、20年。
この水が売り出されたのが1994年ということだから、発売直後からになるのだと唖然とした。
なんのこっちゃのこの水、子どもを連れて実家に戻ったらあった。
なんでも、ばばの説明によると体にとてもいいそうで、飲んでもいいし、痛み痒みにもよくきくから
痛いところ、痒いところに塗るといいものだと言われた。
どう見たってただの水が、なんで痛みや痒みを抑えるのか?
温泉の効能ははっきりしているが、その効果はゆっくり効いてくるものと思う。
それが塗ればたちどころに痒みが治まるというのだ。
そんな魔法があるのだろうか…眉唾としか思えなかった。
この水の値段を知らなかったが、500mlで2000円もする代物。
呆れる というのは、このことを言うのだろう。
ということは、あのひと箱で4万、5万の代金が払われていたのか…?
それがひと箱ではなく当時の実家にはあり、あの人がいなくなるまでの間、ずっとずっとあった。
20年分、気の遠くなるような金額だ。
おれおれ詐欺と呼ばれる高額な詐欺には引っかからなかったが、
彼女の周りにはこの手の胡散臭いものが充満していて、それが私や姉を辟易とさせていた。
なんだかの額縁、掛け軸、壺、仏像、獅子、石、絵・・・
私は見たことがないが、一時は自宅に念仏をあげてまわる人物が週に一度やってきていたようだ。
姉の留守の間のことだが、帰ると家じゅう独特の香のにおいがこもっていたそうだ。
で、この水のエーイーエムという会社、このたび薬事法違反で摘発された。
わかっている。
薬事法違反というのは、広告の仕方が悪いということで・・・
信じる者は救われる のだ。 信じていれば、ただの水でも痛みが治まるし、痒みもなくなるのだろう。
だから、広告の仕方さえ間違えなければそれは間違いではない。
だが、私や、姉や、私の家族は信じてはいなかったから効かなかった。
子どもたちが虫に刺されると、ばあさんはこの水を取り出して気合を込めて塗りまくった。
だが痒いのは無くならないから、ばあさんの気分を害さないように見えないところに行ってムヒやキンカンを塗った。
おばあちゃんには内緒ね…たまらなかった。
ばばに言わせると、私たちに信心が足りないからなのだそうだ。
だからよくならないと言われ、あなた方の分も私が祈っている・・・だそうだ。
仏様というのがそんなに狭量なものなら、私はその手から漏れても仕方がないと思っている。
仏様だってキリストさまだって、忙しいのだ。
これっくらいのことではなかなか動けないことだってあるだろう。
あああああ、でもね、
あの人はそうやって私たちに押し付けていたそういった信心の品物を、ほとんど置いていった。
信心がたりない私は、彼女がいなくなってしゃにむに燃えないゴミに捨てた。
祟るんなら私を祟れ!と思っていた。
姉の葬儀の直後、彼女とぶつかった。以来、こちらが事務的なことで連絡をしても一切返事はない。
敬老の意味を考えたら、私が一方的に悪い。
叔父、叔母に事の顛末を話したら、どうしたって年寄りの味方につくよと言われた。
それもいい。
正義は人の数だけある。生まれたときから育てた子どもだって、親とは違う正義を持つとこの頃身に染みている。
私に正義があるように、あの人にも譲れない正義があり、
それをお互い譲ることが出来ないからぶつかるのだ。
だから、もう、彼女とのことを旦那以外の誰かにわかってもらおうとは思っていない。
だから話題にすることもやめようと思っていた・・・
だけど、こういうことがわかると、ふつふつふつふつ怒りがわいてきてしまった。
なあんだ、言ってみればいかさまじゃないか!
あはははははは
ああ、すっきりした!!
彼女との価値観の相違を理解してくれと、叔父や叔母に言っても無理だろう。
だから姉は一人で孤立した。
いまさらこうだった、ああだったなんて言いたくもない。
自分が全て正しいなんて思ってない。
でも、正しい部分もあると思っているから、こういう鬱憤はため込んではいけないと考えている。
あああああ、ブログに吐き出せてすっきりした。
付き合ってくれたみなさん、ありがとうとごめんなさい。
でも、これだけははっきりとお伝えしたい。
「活」 あの水は私たち家族にはこれっぱかしも効かなかった。