東西圧縮回流記

仙台青春風の旅 ブーメランのように 

3月17日(木)のつぶやき

2011-03-18 | Weblog
18:09 from web
RT @shibudqn: 仙台空港と松島基地に強行着陸して滑走路を再開させた嘉手納のコンバットタロンのクルーはもしかしたら日本を救うことになるかも。
これで米本国からGEのガスタービン発電機や、高圧ポンプとかを米軍輸送機で直送出来るようになった。これはデカいぞ。
18:14 from web
RT @akinori_suzuki: 先ほどツイートした後輩から震災後はじめてメールが届き、救助活動のすさまじい状況に読んでいて涙が出た。彼から承諾は得ていないけど、自衛隊員の一人がどんな心境で臨んでいるかを読んで欲しいです。
http://tl.gd/9acugh
19:02 from web
昨日やっとネットにつながった。3 月 11 日午後 2 時 46 分ですか。また地震かと思った。最初はグラグラと、あとは凄いゆれだ。こんな大きな地震は初めてだと思った。5階の自分の部屋にいた。大型の棚から本が大量にすっ飛んだ。
19:07 from web
天井のエアコンが落ちてきそうだった。あのエアコンの下にさえいなければ大丈夫だと思った。机の下に潜らないで、お尻を机につけて立ったままで、落ちそうなエアコンだけを見ている冷静な自分がいた。最近地震が多かったのでやっと大地震が来たと思った。
19:11 from web
地震の最中に、神戸のことを思い出した。地震の最中だったか、地震直後に携帯でカミサンに電話した。元気か、ボクは大丈夫。応答はなかった。
19:17 from web
本棚の本は殆んど床に散乱していた。大きな揺れが収まっても、片づける気にはなれず、凄い地震だったねと笠原先生に声をかけ、踊り場のドアがロックしないようにチリ取りをドアに挟んで、5階から非常階段を降りて地上の駐車場へ行った。
20:16 from web
階段を降りる途中で実験室の方向から強い酸の臭いがした。地上に降りてからも余震が何度も来た。北側の駐車場には10人ほどの先生がいた。1時間半ほど職場にいたが火事にもならなかったので、散乱した書類等はそのままで、まずは帰宅しようということになった。
20:20 from web
何人かは車で帰宅の途についたが、神戸のことがあったので、車で帰るのには抵抗があった。当初は歩いて数時間かけて帰るつもりだったが、運よく同僚に折りたたみ自転車を借りることができた。
20:27 from web
みぞれの中を自転車で帰った。286号線を通ると、市の中心部から続々と群衆が歩いて来る。広瀬川を渡り、一高のテニスコートの横を通って帰った。自転車のおかげで随分早く帰宅できた。
20:36 from web
国道は帰宅の車の列で大渋滞だった。歩く人、自転車の人、みぞれ雪で冷たく凍えた。
20:39 from web
帰宅するとカミさんがいた。携帯知ってたとのこと。カミさんの友達がいた。荒浜に帰ることができないとのこと。
20:44 from web
NHKTV now 記者会見でやっと正確な線量率を表現するようになった。250ミリシーベルトパーアワー(/h) つまり1時間当たりの線量率、これまで新聞やテレビでは「1時間当たりいくら」の表現が抜けていた。何ていい加減なのだろうと思った。
20:49 from web
午後8時ごろになってお友達が、荒浜の自分の家が流されたと連絡があった、と悲嘆でわなないた。それでもご家族が多賀城の親戚にいることが確認されたと連絡があり、お世話になりましたと多賀城へ向かわれた。
20:56 from web
その後、ニュースで巨大な津波が太平洋岸の街を襲ったと報道があった。その後、通信手段が全てダウンし、ラジオの情報だけだった。あとは停電と断水で暗闇の中の生活が始まった。
20:57 from web
津波の被害と同時に福島第一サイトの原子炉の炉心溶融が始まったことを知った。
by toshikazuyano on Twitter
コメント
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