ツーリングで九州電力玄海原子力発電所に行った。
発電所を見て山崎君のことを思い出した。
山崎尚宏君が逝去した。最近は身内だけで家族葬を行い、その後に訃報を送られることが多くなった。山崎君は、はにかみ屋で内気だが、敵を作らず、親しみがあり芯の強さがあるいい奴だった。謹んでお悔やみ申し上げます。
山崎尚宏君とは修士課程では同じ原子炉工学研究室に所属した。指導は江草龍男教授だった。小生は4年から同研究室に所属していた。
ボクたちが在学中に、東北大学では大騒動となった原子核紛争があって、結果は原子核工学科の歴代教員の総入れ替えとなった。かつて原子炉工学研究室は小林清志教授と飯田嘉宏先生が担当していた。小林教授は静岡大学に移動し後に豊田工大の学長になられ、飯田先生は横浜国大に移り後に横浜国大の学長になられた。その後任に、ボクが4年のとき原子力船事業団から江草龍男先生が教授として赴任してこられた。
山崎尚宏君は学部では原子炉計測研究室に所属していたが、修士課程ではボクと同じ原子炉工学研究室に移動してきた。
修士課程で山崎君とボクはライナックブースターの研究に取り組んだ。学生は前途多難でも無地の心境で薦められたテーマに取組むものだ。ライナックブースターとは加速器と原子炉を組合せた中性子源炉のことで、高い繰り返し周期で原子炉を臨界状態にし、それに同期させて高エネルギー加速器のビームを炉心の中性子源に衝突させ、高密度の中性子パルスを発生させ、物性研究などに役立てる研究用原子炉です。当時はガス炉、軽水炉、重水炉、高速炉と原子力開発は花盛りの興隆期にあり、中性子源パルス炉も研究炉の新しいアイデアのひとつだった。
ライナックブースターの研究会には、仙台市三神峯にある東北大学原子核理学研究施設(核理研)所長の木村一治教授と渡辺昇先生(後に筑波大学教授)、日本原子力研究所の平田実穂先生(後に原研大洗研究所長)と、山崎君とボクの指導教員である江草龍男教授が参加していた。
修士課程1年の山崎君とボクは渡辺昇先生のご指導で三神峯の核理研にある300MeV 電子直線加速器(リニアック、ライナックとも言う)の高速電子ビームを模擬ターゲットに衝突させ、その放射化強度で中性子源の強度分布を予測するという実験を重ねていた。
修士1年次の夏休みには、山崎君とボクは茨城県東海村にある日本原子力研究所(原研)の真砂寮に住み、高速炉設計班の平田実穂室長のもとで猪川さんのご指導でブースターの臨界計算を実施した。
修士2年次では、山崎君は東北大の核理研で300MeV加速器による中性子ターゲットに関する実験を継続して担当し、ボクは原研に移住しブースター炉心の核熱設計を実施した。
修士課程を終了した後、山崎君は三菱原子力(現在は三菱重工)に就職し、その後は軽水炉関連の仕事に従事していると伺っていた。今回ボクがツーリングで行った九電玄海原子力発電所や関電高浜発電所の仕事もあっただろうと思う。彼は忙しくボクらの学科同期会には時たま参加してきたが、そこはお互いに現役だったので、やあ元気かという程度の会話で、自分の会社の仕事や話題を避けるのが企業人たる武士の道と暗黙の合意が成立していた。山崎君は企業を退職後も、つい最近まで国の原子力監査機関で仕事をしていると風の便りで聞いていました。彼は仕事も忙しいのか長いあいだ会うことがなかった。ボクが退職して気ままに過ごしていても、彼は遊ぶ暇もなかったようで、技術者として長きに渡り原子力の一途な道に筋を通して全うしたことには多いに敬意を表します。
山崎君との思い出は、東北大の300MeV加速器実験で遮蔽体の鉛ブロックを一緒になって黙々と積み上げていたこと。鉛は比重11.36で非常に大きく、レンガの比重1.7とは重さが全く違う。鉛がこんなに重いのかと実感したことがある。
次に、たぶんご褒美だと思うが、先生方と山崎君と一緒に、仙台市向山の木村一治先生のご自宅に招待頂き、遠慮もせずに即答で、はしたなくも、すき焼きをご馳走になったことがあった。金欠が常の学生にとって、先生宅のスキヤキは竜宮城の宴か、あるいは天にも昇る思いで舌づつみを打ち、洒落ていて高貴な会話とともに、心豊かになって帰宅した思い出があります。
山崎君、今となれば学生時代は刺激的で思い起こせば楽しいことも多かったですね。そちらでも絶品スキヤキを堪能していてください。合掌
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