前回喜多見まできた野川下りの続きとなります。喜多見編で書いたブログで、厳密にいえば二子玉川編は野川下りではなく、「旧入間川改め野川」下りであることが判明していますが、とりあえず前回の続きでこちらを歩く必要を感じて、このコースを設定します。
喜多見にごりや
世田谷通りは古くからある街道でところどころに古くからありそうな商店が点在しています。外見「料理屋かな?」かなと思った“にごりや”は不動産屋さんで元は石屋さんだったようです。世田谷通りは大山道だと解釈していたのですがそれは誤りで、町田へ至る甲州街道の裏街道とのことですが、生活道路として大いに活躍していたようです。誤認識でしたが、大山道についてWikipediaから大山道のうち矢倉沢往還を引用します。
矢倉沢往還
江戸から大山への経路として代表的なものである。矢倉沢往還の街道は、律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道(箱根峠)が開かれるまで官道として機能していた。江戸時代に入って大山講が盛んになる享保年間から、江戸から大山へ、あるいは足柄から大山への道としても機能する。急峻な箱根峠に対して足柄峠は緩やかであり、また、江戸-沼津間の短絡路であったために、東海道の脇往還としても発達した。神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として機能している。
青山通り大山道
矢倉沢往還の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。途中の下鶴間宿に、大山阿夫利神社の分社が存在する。
現在でも神奈川県内で「大山街道」の名が定着している道である。
経路:赤坂(以降、東京都) - 青山 - 渋谷 - 三軒茶屋 - 二子の渡し(多摩川) - 溝口(神奈川県川崎市) - 荏田(横浜市) - 長津田 - 下鶴間(大和市) - 国分(海老名市) - 厚木の渡し(相模川) - 厚木(以降、厚木市) - 愛甲 - 下糟屋(以降、伊勢原市) - 上粕屋 - 石倉 - 田村通り大山道を経て大山へ
大山道、現在の目黒区では玉川通りですが、律令時代の東海道だったのです。覚えておきましょう。
雁追橋付近の野川
アオサギ
次太夫堀公園
六郷用水の再現
小泉次太夫巡検図
次太夫堀公園民家園
雁追橋付近では退屈な河川改修後の入間川改め野川ですが、次太夫堀つまり六郷用水をテーマに据えると今回のルートが面白くなります。すこやか歩こう会ではこれまでも六郷用水に関連する場所を歩いてきました。そのほとんどが大田区です。東急多摩川駅から六郷用水の流れが再現され、福山雅治が歌って有名になった桜坂。池上七福神めぐりで池上警察署の脇にある六郷用水の暗渠。かつて池上七福神めぐりのスタート駅とした東急武蔵新田駅は、六郷用水により開発された新田に由来します。桜坂は中原街道の旧道で、徳川家康江戸入府当時の東海道でした。次太夫堀公園についてWikipediaから引用します。
当公園は1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。当公園ではかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。
次大夫堀
園内には公園の名の由来になっている「次大夫堀」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と、丸子川として一部分のみ残っているのみである。
六郷用水についてもWikipediaから引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。
一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。
外環道工事現場
きしべの路(大正橋付近)
外環と東名のジャンクション工事現場
大規模な工事が行われていますが、歩いているときにはなんだかわかりませんでした。外環道と東名高速がこの場所で交わるための工事でした。首都高新宿線高井戸付近で行われている工事も、外環道の関係なのだと納得したところです。これが開通すると、関越道に行きやすくなり、環八の渋滞も解消されることでしょう。開通予定は「見通せない」とのことですが、2020年のオリンピックには間に合わないようです。
宇奈根付近の庚申塔
サギソウのレリーフ
鯉のレリーフ
けやき?のレリーフ
セキレイ?のレリーフ
宇奈根付近の野川
仙川合流地点
この下見時点では二子玉川まで歩いた後、次の企画は支流である仙川と考えていましたが、宇奈根付近で多摩川に注いでいた旧野川に興味が湧いてきました。仙川を辿り再びこの合流点を訪れるのは、結構先のことかもしれません。
野川と野川水道橋の由来
野川は国分市東恋ヶ窪に源を発し国分寺崖線に沿って幾多の湧水を取り込み小金井、三鷹、調布、狛江を経て世田谷区に入り、二子玉川付近で多摩川に合流する全長約20km、流域面積約70万km2に及ぶ一級河川です。
かつては現野川より西側を流れ、宇奈根2丁目あたりで多摩川に合流していたようですが、約400年前に開削された「次代夫堀」による水田開発やその後の大規模自炊事業により現在の位置に姿を大きく変えました。
また、都区内の河川としては自然環境も多く残されコイやギンブナなどの魚類、カワセミやマガモなどの鳥類が生息し、地域住民をはじめ多くの方々の潤いの場となっています。
「野川水道橋」の由来は、大正12年当時渋谷町・町営水道が砧下浄水場を造り、多摩川より取水した水を渋谷方面に給水したことから始まります。水を送るための水道本管は初め野川の水底に埋設されていましたが、昭和35年に野川が改修された際水道本管が一旦地上に出て川の上を通ることになり、鉄管を支える目的で「野川水道橋」が架けられ、平成18年までの46年間、「水道管のある歩道橋」として地域の方々に親しまれ生活を支えてきました。
平成18年の野川改修工事で再び川底を通るようになりましたが、「野川水道橋」の46年間の歴史を残しておくために、新しい橋も「小川水道橋」とすることになりました。
鎌田の砧下浄水所、水道道路、野川水道橋は、世田谷の水道文明遺産の証人でもあります。
平成20年4月1日 東京都世田谷区 鎌田南睦会 協力:駒沢給水塔風景資産保存会
ここにも駒沢双子の給水塔が出てきましたね。このようにこれまで行ったところとの関連がわかってくると面白いです。渋谷町水道に関連する記述をWikipediaの砧下浄水所の項目から引用します。
明治時代、日清戦争・日露戦争を経て東京市は爆発的な経済発展を遂げており、人口の増加に伴い、水道の整備が急務であった。政府は1909年(明治42年)、中島鋭治博士らに水道需要と建設の計画策定に関わる調査を委託した。これが、我が国において大規模な近代水道を整備する始まりとなった。後に水道整備を加速するため、内務省による水道条例の改正が1913年(大正2年)に行われた。それまでの水道条例では、たとえ民間水道会社が水道を敷設したとしても、一定期間後に当該市町村に水道を移譲しなくてはならない条件がつけられていた。このため、それまで民間水道会社の設立・参入には消極的な向きもあったが、所定期間後の移譲を有償にする等の改正によって、民間水道会社の設立が促された。これにより最も古いのが玉川水道(株)であり、澁谷町水道は二番目である。結局私営は三つにとどまり、公営企業も1932年(昭和7年)の東京市大合併に合わせて東京都水道局に吸収された。
鎌田付近の野川
多摩川河川敷
多摩川河川敷内の野川
コヤマドライビングスクール
兵庫橋
野川と田園都市線
私が使用している昭文社の地図ソフトMappleは少し古いので、野川の流れが変わっていました。地図では野川を下流に向かって右側にコヤマドライビングスクールがありますが、実際には左側です。洪水対策で大規模な河川改修が行われたのでしょう。
上流から来ると野川に最後に架かるのが兵庫橋です。多摩川河川敷に兵庫島公園があり、そこへ渡るための橋となります。多摩川河川敷も空が大きく見えて気持ちがいいです。このコース、三月に設定するかどうか。私のスケジュール次第といった感じです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
喜多見にごりや
世田谷通りは古くからある街道でところどころに古くからありそうな商店が点在しています。外見「料理屋かな?」かなと思った“にごりや”は不動産屋さんで元は石屋さんだったようです。世田谷通りは大山道だと解釈していたのですがそれは誤りで、町田へ至る甲州街道の裏街道とのことですが、生活道路として大いに活躍していたようです。誤認識でしたが、大山道についてWikipediaから大山道のうち矢倉沢往還を引用します。
矢倉沢往還
江戸から大山への経路として代表的なものである。矢倉沢往還の街道は、律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道(箱根峠)が開かれるまで官道として機能していた。江戸時代に入って大山講が盛んになる享保年間から、江戸から大山へ、あるいは足柄から大山への道としても機能する。急峻な箱根峠に対して足柄峠は緩やかであり、また、江戸-沼津間の短絡路であったために、東海道の脇往還としても発達した。神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として機能している。
青山通り大山道
矢倉沢往還の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。途中の下鶴間宿に、大山阿夫利神社の分社が存在する。
現在でも神奈川県内で「大山街道」の名が定着している道である。
経路:赤坂(以降、東京都) - 青山 - 渋谷 - 三軒茶屋 - 二子の渡し(多摩川) - 溝口(神奈川県川崎市) - 荏田(横浜市) - 長津田 - 下鶴間(大和市) - 国分(海老名市) - 厚木の渡し(相模川) - 厚木(以降、厚木市) - 愛甲 - 下糟屋(以降、伊勢原市) - 上粕屋 - 石倉 - 田村通り大山道を経て大山へ
大山道、現在の目黒区では玉川通りですが、律令時代の東海道だったのです。覚えておきましょう。
雁追橋付近の野川
アオサギ
次太夫堀公園
六郷用水の再現
小泉次太夫巡検図
次太夫堀公園民家園
雁追橋付近では退屈な河川改修後の入間川改め野川ですが、次太夫堀つまり六郷用水をテーマに据えると今回のルートが面白くなります。すこやか歩こう会ではこれまでも六郷用水に関連する場所を歩いてきました。そのほとんどが大田区です。東急多摩川駅から六郷用水の流れが再現され、福山雅治が歌って有名になった桜坂。池上七福神めぐりで池上警察署の脇にある六郷用水の暗渠。かつて池上七福神めぐりのスタート駅とした東急武蔵新田駅は、六郷用水により開発された新田に由来します。桜坂は中原街道の旧道で、徳川家康江戸入府当時の東海道でした。次太夫堀公園についてWikipediaから引用します。
当公園は1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。当公園ではかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。
次大夫堀
園内には公園の名の由来になっている「次大夫堀」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と、丸子川として一部分のみ残っているのみである。
六郷用水についてもWikipediaから引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。
一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。
外環道工事現場
きしべの路(大正橋付近)
外環と東名のジャンクション工事現場
大規模な工事が行われていますが、歩いているときにはなんだかわかりませんでした。外環道と東名高速がこの場所で交わるための工事でした。首都高新宿線高井戸付近で行われている工事も、外環道の関係なのだと納得したところです。これが開通すると、関越道に行きやすくなり、環八の渋滞も解消されることでしょう。開通予定は「見通せない」とのことですが、2020年のオリンピックには間に合わないようです。
宇奈根付近の庚申塔
サギソウのレリーフ
鯉のレリーフ
けやき?のレリーフ
セキレイ?のレリーフ
宇奈根付近の野川
仙川合流地点
この下見時点では二子玉川まで歩いた後、次の企画は支流である仙川と考えていましたが、宇奈根付近で多摩川に注いでいた旧野川に興味が湧いてきました。仙川を辿り再びこの合流点を訪れるのは、結構先のことかもしれません。
野川と野川水道橋の由来
野川は国分市東恋ヶ窪に源を発し国分寺崖線に沿って幾多の湧水を取り込み小金井、三鷹、調布、狛江を経て世田谷区に入り、二子玉川付近で多摩川に合流する全長約20km、流域面積約70万km2に及ぶ一級河川です。
かつては現野川より西側を流れ、宇奈根2丁目あたりで多摩川に合流していたようですが、約400年前に開削された「次代夫堀」による水田開発やその後の大規模自炊事業により現在の位置に姿を大きく変えました。
また、都区内の河川としては自然環境も多く残されコイやギンブナなどの魚類、カワセミやマガモなどの鳥類が生息し、地域住民をはじめ多くの方々の潤いの場となっています。
「野川水道橋」の由来は、大正12年当時渋谷町・町営水道が砧下浄水場を造り、多摩川より取水した水を渋谷方面に給水したことから始まります。水を送るための水道本管は初め野川の水底に埋設されていましたが、昭和35年に野川が改修された際水道本管が一旦地上に出て川の上を通ることになり、鉄管を支える目的で「野川水道橋」が架けられ、平成18年までの46年間、「水道管のある歩道橋」として地域の方々に親しまれ生活を支えてきました。
平成18年の野川改修工事で再び川底を通るようになりましたが、「野川水道橋」の46年間の歴史を残しておくために、新しい橋も「小川水道橋」とすることになりました。
鎌田の砧下浄水所、水道道路、野川水道橋は、世田谷の水道文明遺産の証人でもあります。
平成20年4月1日 東京都世田谷区 鎌田南睦会 協力:駒沢給水塔風景資産保存会
ここにも駒沢双子の給水塔が出てきましたね。このようにこれまで行ったところとの関連がわかってくると面白いです。渋谷町水道に関連する記述をWikipediaの砧下浄水所の項目から引用します。
明治時代、日清戦争・日露戦争を経て東京市は爆発的な経済発展を遂げており、人口の増加に伴い、水道の整備が急務であった。政府は1909年(明治42年)、中島鋭治博士らに水道需要と建設の計画策定に関わる調査を委託した。これが、我が国において大規模な近代水道を整備する始まりとなった。後に水道整備を加速するため、内務省による水道条例の改正が1913年(大正2年)に行われた。それまでの水道条例では、たとえ民間水道会社が水道を敷設したとしても、一定期間後に当該市町村に水道を移譲しなくてはならない条件がつけられていた。このため、それまで民間水道会社の設立・参入には消極的な向きもあったが、所定期間後の移譲を有償にする等の改正によって、民間水道会社の設立が促された。これにより最も古いのが玉川水道(株)であり、澁谷町水道は二番目である。結局私営は三つにとどまり、公営企業も1932年(昭和7年)の東京市大合併に合わせて東京都水道局に吸収された。
鎌田付近の野川
多摩川河川敷
多摩川河川敷内の野川
コヤマドライビングスクール
兵庫橋
野川と田園都市線
私が使用している昭文社の地図ソフトMappleは少し古いので、野川の流れが変わっていました。地図では野川を下流に向かって右側にコヤマドライビングスクールがありますが、実際には左側です。洪水対策で大規模な河川改修が行われたのでしょう。
上流から来ると野川に最後に架かるのが兵庫橋です。多摩川河川敷に兵庫島公園があり、そこへ渡るための橋となります。多摩川河川敷も空が大きく見えて気持ちがいいです。このコース、三月に設定するかどうか。私のスケジュール次第といった感じです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール