野川シリーズの五回目となります。
渋谷で建設中のビル群
建設中の一番高く見えるビルが「渋谷スクランブルスクエア東棟」です。東棟が2019年度竣工予定、中央棟、西棟は2027年度竣工予定となっており、東棟が一番高く47階230m地下7階です。サンシャイン60が60階240mなので、階数の割には高さがありますね。屋上は屋外展望施設となり、人気となるでしょう。
手前で建設中のビルは「道玄坂一丁目駅前地区」で「渋谷フクラス」という名称が決定しているそうで、2019年秋竣工予定です。東急不動産のニュースリリースから引用します。
道玄坂一丁目駅前地区市街地再開発組合と、同組合の組合員および参加組合員として参画している東急不動産株式会社(本社:東京都港区、社長:大隈 郁仁)は、共に事業を推進している「道玄坂一丁目駅前地区第一種市街地再開発事業」(以降、本プロジェクト)のビル名称を、「渋谷フクラス(SHIBUYA FUKURAS)」(以降、本ビル)に決定したことをお知らせいたします。
「渋谷フクラス」という名称には、「膨らす(膨らます)」という日本語から、渋谷および本ビルを訪れるすべての人々の幸福を大きく膨らませていきたいという思いを込めました。
本ビルの建築コンセプトは「小さな物語の集積」です。多様な人や文化が混在し、集まり成長していく過程で小さな物語が生まれ、その集合体が街をかたどっていく渋谷のように、小さな結晶体が集まりビルの外観が形成されていきます。ロゴマークは、街のエネルギーが凝縮された、結晶体のような本ビルの外観から「膨らむ結晶体」を表現。ロゴカラーのシルバーは、洗練・品格・先進の印象を打ち出すとともに、すべての色(個性)を輝かすことのできる柔軟性や多様性を表現しました。
これまで多くの流行や文化を生み出し、成長してきた渋谷において、現在、東急グループは「エンタテイメントシティSHIBUYA」を掲げ、100年に1度と言われる再開発を関係者と協力して推進しています。渋谷の魅力である「多様な人・文化・個性の混在」を活かし続け、世界を牽引する新しいビジネスやカルチャーを発信することが渋谷再開発のビジョンです。
本プロジェクトが目指すのは新しいだけの渋谷ではなく、これまで渋谷という街で生み出されてきた結晶体のような小さな物語を集め、さらには世界中のあらゆる人や企業を受け入れながら、そこに集う人々の「幸福」を未来に向けて「膨らませていく」場所です。渋谷を訪れる国内外の多くの人々を迎える玄関口として、来街者の快適さを重視した街と人をつなぐ仕掛けを取り入れ、多くの交流を生み出し、街ににぎわいを創出します。
「日本語かよ」とツッコミたくなります。渋谷東急プラザにしてくれればよかったのに。ときどき「ヒカリエ」の名前もシニアモーメントで出てこないのに、渋谷にできるビルの名前を覚えきれるかどうか。
右側にちらっと見えているのが昨年9月に開業した「渋谷ストリーム」です。スクランブルスクエアとストリームの事業主体は東急電鉄で、フクラスは東急不動産です。かつて渋谷戦争と言えば東急と西武でしたが、現在は電鉄と不動産の身内で競い合っている構図ですね。名前の付け方では、電鉄が一歩リードという感じがします。
調布市菊野台の野川
柴崎駅に着いたのは予定より10分遅れでした。京王線の快速などがどの駅に停車するのか理解していないので、明大前で悩んだ結果各駅停車に乗ったため、事前に調べた時間に到着しなかったようです。20分の準特急に乗って、千歳烏山で快速に、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定してた34分に到着したようです。それ以前に渋谷駅で井の頭線の急行電車ではなく、13:01発の各駅停車に乗れば、明大前で快速に乗ることができ、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定通りに到着しました。明大前に行くのに急行にこだわったのが間違いかな。
川沿いの児童公園をお借りしてストレッチをしウォーキングスタートです。
箕和田橋付近の野川
下見で歩いた時は平日、曇り空のうすら寒い日ででしたが、この日は休日で快晴。風が少し冷たいものの、川沿いを散歩している人がたくさんいました。野川では白鷺を多く見ました。コサギとチュウサギかなぁと思っていたのですが、この二羽は一緒に行動しているようなので、親子なのかもしれません。
小金橋付近の野川
小金橋の北側は調布市西つつじヶ丘で南側は狛江市西野川です。この先まっすぐに改修された野川を離れて、旧野川が暗渠化された岩戸川緑地公園を歩きます。
大橋
「これが大橋?」とツッコミたくなるような小さな橋で、目黒川の大橋と比べても1/4くらいでしょう。かつての野川は氾濫を繰り返し、川幅も広くて大きな橋があったものと思われます。地図で見るとこの付近には子の権現三島神社、御岳神社、八幡神社と広い境内を持つ神社が集中していることから、かつての狛江集落の中心地だったのでしょう。大橋の道は大橋通りで、集落を結ぶ重要な橋だったものと思われます。
野川緑地公園
岩戸川緑地公園がどこで野川緑地公園に変わるのかよくわかりませんが、御台橋あたりでしょうか?市役所東通り付近の野川緑地公園は河川改修されまっすぐになっていました。この付近の河川が改修されたのは昭和初期だそうです。
石橋供養塔
区役所東通りからイチョウ並木通りを通って世田谷通りの一の橋交差点へ来ました。この供養塔はその交差点に建っており、これを調べるうちに多くの疑問が解けました。
市役所付近の野川は昭和初期に河川改修が行われており、もとの野川の痕跡はほとんどありません。市役所から先、野川緑地公園からのびる暗渠は、小田急線沿いに喜多見駅方面へ向かっているようにも見えます。(未確認の単なる印象です) 世田谷通りには一の橋、二の橋などの地名が残り、これらの橋が何川にかかっていたのかわかりませんでしたが、供養塔を調べるうちに野川と六郷用水が合流し世田谷通り沿いに流れていたことがわかりました。この供養塔について狛江市市民協働課発行の●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用します。
北多摩郡でいちばん早くコンクリート製になった一の橋
曽我宗一さん(85歳)の話
ウチは祖父の代から橋の横でよろず屋をやっていました。昔は一の橋は石の橋で、二の橋は木の橋で、ウチの屋号は石橋というんですが、二の橋の横にあったよろず屋の屋号は板橋と言ってました。新一の橋は、世田谷通りが造られたときに架けられて、バスも通るようになり、人通りも増えました。その後、軍需工場ができたときに、湘南の橋が造られました。明治23年生まれの父が若いとき、一の橋を石橋からコンクリートに改修するのを手伝ったんですが、コンクリート製の橋は北多摩郡ではいちばん早かったと聞いてます。いまある石橋供養塔はウチの父が屋根をつけたり、花を飾ったりして、守っていたんです。この橋は六郷用水がなくなるまで使われましたが、橋の幅が3mぐらいありましたね。用水と野川の水が合流するので、一の橋の辺りは川幅が道より広かったんです。子どものころは、水もきれいで、橋の上から飛び込んだり、よく遊んだものです。
古地図 ●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用
現在の野川は二子玉川付近で多摩川に合流していますが、元々の野川は宇奈根で多摩川に注いでいました。我々のこの日のルートはもともとの野川を歩き、一の橋から野川と合流後の六郷用水沿いを歩いたことになります。この地図がわかりやすいですね。この付近の様子を狛江市のホームページから引用します。
昭和40年 六郷用水 用水・道路・下水道
江戸時代初期に造られ、田畑の灌漑用水路として大切に管理されてきた六郷用水も、昭和前期には下流の六郷地区が宅地や工場用地になったため田圃が少なくなり、ほとんど使われなくなったことと、多摩川の砂利を乱掘したため河床が下がり、水が入らなくなったこともあって、昭和30年代後半には流れる水が少なくなった。そのため水が停滞し、悪臭を放つことなどがあり、昭和40年には地域の住民から、暗渠にし、上を道路にしてほしいという請願が出されている。まもなく多摩川住宅ができるというのに、町の中心である狛江駅からバスが通れる道がなく、地域の住民にとっても不便な状態であった。
一方、一の橋付近の世田谷通りも昭和30年代後半には幅8mで歩道がなく、大型車も通る。その上、南側は六郷用水(旧野川)の急崖(きゅうがい)で、北側には民家が連なっていた。だから家から出るのも、道を歩くのも命がけだった。そこで昭和40年に拡張計画が立てられ、六郷用水を暗渠にし、その下に下水道管も埋設して、幅16mの歩道付きの道路にするのである。
しかし、両計画とも下水道管を敷設するというが、終末処理場が定まらない。町内は平坦で、どこにも家が建ち、下水処理場を造る場所がない。特に屎尿処理は切羽詰まっていた。
自分の町の中に処理場を造れないのは多摩地区のどこの市や町も同じである。そこで昭和43年に、都は流域下水道計画を策定し、都が多摩川と荒川の川岸に処理場を造り、各市や町から処理場までの幹線を敷設する。各市や町の中の下水管はそれぞれの市や町が敷設するというのである。そのとき狛江町は世田谷区境で森ヶ崎幹線に接続し、大田区にある森ヶ崎処理場で処理することになったので、翌年から工事を開始し、昭和44年には第一地区の工事が完成し、下水道を使えるようになった。
工事を終えた六郷用水跡には下に下水管が敷設され、上は「六郷さくら通り」と、拡幅された「世田谷通り」として今は利用されている。
六郷用水は無くなったが、長年使い慣れてきた地名はぜひ残したいものと、橋は無くなっても田中橋、新一の橋、一の橋、二の橋の名は地名として今も残り、駄倉橋の親柱は市役所前交差点の歩道に残されている。
また、六郷さくら通りを泉龍寺裏から西河原公民館に向かって行くと、左側に何カ所か歩道が広くなったり、樹木や草花が植えられた場所がある。それは、かつての六郷用水がカーブしながら高度を落とさぬようにして水を流し、遙か六郷の村々に水を送っていた跡であり、六郷さくら通りを拡幅し直線状にしたときにはみ出した部分でもある。
井上 孝(狛江市文化財専門委員)
滝下橋緑道
世田谷区喜多見の野川
滝下橋緑道も六郷用水の暗渠になります。六郷用水については、次回の野川シリーズで触れることにしましょう。野川の川沿いへ下りて、世田谷通りをくぐります。
河川改修工事中
我々は小金橋から暗渠上を歩いてきましたが、河川改修されたまっすぐの野川はもともと入間川という別の川でした。狛江市東野川で調布市入間町から流れてくる入間川が野川に合流していますが、現在野川と言っている部分はもともと入間川を河川改修したものです。そして現在もまた、きたみふれあい広場付近で河川改修が行われています。
我々は広場をお借りしてストレッチ後、喜多見駅で解散となりました。
有志は神泉の串カツ田中で反省会。たこ焼き職人の後継者もできてよかったです。帰宅途中にONCEへ突入しだらだらと飲み続けました。この反省会こそ、一番の反省点かもしれません。「わかっちゃいるけど、やめられない!」
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
渋谷で建設中のビル群
建設中の一番高く見えるビルが「渋谷スクランブルスクエア東棟」です。東棟が2019年度竣工予定、中央棟、西棟は2027年度竣工予定となっており、東棟が一番高く47階230m地下7階です。サンシャイン60が60階240mなので、階数の割には高さがありますね。屋上は屋外展望施設となり、人気となるでしょう。
手前で建設中のビルは「道玄坂一丁目駅前地区」で「渋谷フクラス」という名称が決定しているそうで、2019年秋竣工予定です。東急不動産のニュースリリースから引用します。
道玄坂一丁目駅前地区市街地再開発組合と、同組合の組合員および参加組合員として参画している東急不動産株式会社(本社:東京都港区、社長:大隈 郁仁)は、共に事業を推進している「道玄坂一丁目駅前地区第一種市街地再開発事業」(以降、本プロジェクト)のビル名称を、「渋谷フクラス(SHIBUYA FUKURAS)」(以降、本ビル)に決定したことをお知らせいたします。
「渋谷フクラス」という名称には、「膨らす(膨らます)」という日本語から、渋谷および本ビルを訪れるすべての人々の幸福を大きく膨らませていきたいという思いを込めました。
本ビルの建築コンセプトは「小さな物語の集積」です。多様な人や文化が混在し、集まり成長していく過程で小さな物語が生まれ、その集合体が街をかたどっていく渋谷のように、小さな結晶体が集まりビルの外観が形成されていきます。ロゴマークは、街のエネルギーが凝縮された、結晶体のような本ビルの外観から「膨らむ結晶体」を表現。ロゴカラーのシルバーは、洗練・品格・先進の印象を打ち出すとともに、すべての色(個性)を輝かすことのできる柔軟性や多様性を表現しました。
これまで多くの流行や文化を生み出し、成長してきた渋谷において、現在、東急グループは「エンタテイメントシティSHIBUYA」を掲げ、100年に1度と言われる再開発を関係者と協力して推進しています。渋谷の魅力である「多様な人・文化・個性の混在」を活かし続け、世界を牽引する新しいビジネスやカルチャーを発信することが渋谷再開発のビジョンです。
本プロジェクトが目指すのは新しいだけの渋谷ではなく、これまで渋谷という街で生み出されてきた結晶体のような小さな物語を集め、さらには世界中のあらゆる人や企業を受け入れながら、そこに集う人々の「幸福」を未来に向けて「膨らませていく」場所です。渋谷を訪れる国内外の多くの人々を迎える玄関口として、来街者の快適さを重視した街と人をつなぐ仕掛けを取り入れ、多くの交流を生み出し、街ににぎわいを創出します。
「日本語かよ」とツッコミたくなります。渋谷東急プラザにしてくれればよかったのに。ときどき「ヒカリエ」の名前もシニアモーメントで出てこないのに、渋谷にできるビルの名前を覚えきれるかどうか。
右側にちらっと見えているのが昨年9月に開業した「渋谷ストリーム」です。スクランブルスクエアとストリームの事業主体は東急電鉄で、フクラスは東急不動産です。かつて渋谷戦争と言えば東急と西武でしたが、現在は電鉄と不動産の身内で競い合っている構図ですね。名前の付け方では、電鉄が一歩リードという感じがします。
調布市菊野台の野川
柴崎駅に着いたのは予定より10分遅れでした。京王線の快速などがどの駅に停車するのか理解していないので、明大前で悩んだ結果各駅停車に乗ったため、事前に調べた時間に到着しなかったようです。20分の準特急に乗って、千歳烏山で快速に、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定してた34分に到着したようです。それ以前に渋谷駅で井の頭線の急行電車ではなく、13:01発の各駅停車に乗れば、明大前で快速に乗ることができ、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定通りに到着しました。明大前に行くのに急行にこだわったのが間違いかな。
川沿いの児童公園をお借りしてストレッチをしウォーキングスタートです。
箕和田橋付近の野川
下見で歩いた時は平日、曇り空のうすら寒い日ででしたが、この日は休日で快晴。風が少し冷たいものの、川沿いを散歩している人がたくさんいました。野川では白鷺を多く見ました。コサギとチュウサギかなぁと思っていたのですが、この二羽は一緒に行動しているようなので、親子なのかもしれません。
小金橋付近の野川
小金橋の北側は調布市西つつじヶ丘で南側は狛江市西野川です。この先まっすぐに改修された野川を離れて、旧野川が暗渠化された岩戸川緑地公園を歩きます。
大橋
「これが大橋?」とツッコミたくなるような小さな橋で、目黒川の大橋と比べても1/4くらいでしょう。かつての野川は氾濫を繰り返し、川幅も広くて大きな橋があったものと思われます。地図で見るとこの付近には子の権現三島神社、御岳神社、八幡神社と広い境内を持つ神社が集中していることから、かつての狛江集落の中心地だったのでしょう。大橋の道は大橋通りで、集落を結ぶ重要な橋だったものと思われます。
野川緑地公園
岩戸川緑地公園がどこで野川緑地公園に変わるのかよくわかりませんが、御台橋あたりでしょうか?市役所東通り付近の野川緑地公園は河川改修されまっすぐになっていました。この付近の河川が改修されたのは昭和初期だそうです。
石橋供養塔
区役所東通りからイチョウ並木通りを通って世田谷通りの一の橋交差点へ来ました。この供養塔はその交差点に建っており、これを調べるうちに多くの疑問が解けました。
市役所付近の野川は昭和初期に河川改修が行われており、もとの野川の痕跡はほとんどありません。市役所から先、野川緑地公園からのびる暗渠は、小田急線沿いに喜多見駅方面へ向かっているようにも見えます。(未確認の単なる印象です) 世田谷通りには一の橋、二の橋などの地名が残り、これらの橋が何川にかかっていたのかわかりませんでしたが、供養塔を調べるうちに野川と六郷用水が合流し世田谷通り沿いに流れていたことがわかりました。この供養塔について狛江市市民協働課発行の●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用します。
北多摩郡でいちばん早くコンクリート製になった一の橋
曽我宗一さん(85歳)の話
ウチは祖父の代から橋の横でよろず屋をやっていました。昔は一の橋は石の橋で、二の橋は木の橋で、ウチの屋号は石橋というんですが、二の橋の横にあったよろず屋の屋号は板橋と言ってました。新一の橋は、世田谷通りが造られたときに架けられて、バスも通るようになり、人通りも増えました。その後、軍需工場ができたときに、湘南の橋が造られました。明治23年生まれの父が若いとき、一の橋を石橋からコンクリートに改修するのを手伝ったんですが、コンクリート製の橋は北多摩郡ではいちばん早かったと聞いてます。いまある石橋供養塔はウチの父が屋根をつけたり、花を飾ったりして、守っていたんです。この橋は六郷用水がなくなるまで使われましたが、橋の幅が3mぐらいありましたね。用水と野川の水が合流するので、一の橋の辺りは川幅が道より広かったんです。子どものころは、水もきれいで、橋の上から飛び込んだり、よく遊んだものです。
古地図 ●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用
現在の野川は二子玉川付近で多摩川に合流していますが、元々の野川は宇奈根で多摩川に注いでいました。我々のこの日のルートはもともとの野川を歩き、一の橋から野川と合流後の六郷用水沿いを歩いたことになります。この地図がわかりやすいですね。この付近の様子を狛江市のホームページから引用します。
昭和40年 六郷用水 用水・道路・下水道
江戸時代初期に造られ、田畑の灌漑用水路として大切に管理されてきた六郷用水も、昭和前期には下流の六郷地区が宅地や工場用地になったため田圃が少なくなり、ほとんど使われなくなったことと、多摩川の砂利を乱掘したため河床が下がり、水が入らなくなったこともあって、昭和30年代後半には流れる水が少なくなった。そのため水が停滞し、悪臭を放つことなどがあり、昭和40年には地域の住民から、暗渠にし、上を道路にしてほしいという請願が出されている。まもなく多摩川住宅ができるというのに、町の中心である狛江駅からバスが通れる道がなく、地域の住民にとっても不便な状態であった。
一方、一の橋付近の世田谷通りも昭和30年代後半には幅8mで歩道がなく、大型車も通る。その上、南側は六郷用水(旧野川)の急崖(きゅうがい)で、北側には民家が連なっていた。だから家から出るのも、道を歩くのも命がけだった。そこで昭和40年に拡張計画が立てられ、六郷用水を暗渠にし、その下に下水道管も埋設して、幅16mの歩道付きの道路にするのである。
しかし、両計画とも下水道管を敷設するというが、終末処理場が定まらない。町内は平坦で、どこにも家が建ち、下水処理場を造る場所がない。特に屎尿処理は切羽詰まっていた。
自分の町の中に処理場を造れないのは多摩地区のどこの市や町も同じである。そこで昭和43年に、都は流域下水道計画を策定し、都が多摩川と荒川の川岸に処理場を造り、各市や町から処理場までの幹線を敷設する。各市や町の中の下水管はそれぞれの市や町が敷設するというのである。そのとき狛江町は世田谷区境で森ヶ崎幹線に接続し、大田区にある森ヶ崎処理場で処理することになったので、翌年から工事を開始し、昭和44年には第一地区の工事が完成し、下水道を使えるようになった。
工事を終えた六郷用水跡には下に下水管が敷設され、上は「六郷さくら通り」と、拡幅された「世田谷通り」として今は利用されている。
六郷用水は無くなったが、長年使い慣れてきた地名はぜひ残したいものと、橋は無くなっても田中橋、新一の橋、一の橋、二の橋の名は地名として今も残り、駄倉橋の親柱は市役所前交差点の歩道に残されている。
また、六郷さくら通りを泉龍寺裏から西河原公民館に向かって行くと、左側に何カ所か歩道が広くなったり、樹木や草花が植えられた場所がある。それは、かつての六郷用水がカーブしながら高度を落とさぬようにして水を流し、遙か六郷の村々に水を送っていた跡であり、六郷さくら通りを拡幅し直線状にしたときにはみ出した部分でもある。
井上 孝(狛江市文化財専門委員)
滝下橋緑道
世田谷区喜多見の野川
滝下橋緑道も六郷用水の暗渠になります。六郷用水については、次回の野川シリーズで触れることにしましょう。野川の川沿いへ下りて、世田谷通りをくぐります。
河川改修工事中
我々は小金橋から暗渠上を歩いてきましたが、河川改修されたまっすぐの野川はもともと入間川という別の川でした。狛江市東野川で調布市入間町から流れてくる入間川が野川に合流していますが、現在野川と言っている部分はもともと入間川を河川改修したものです。そして現在もまた、きたみふれあい広場付近で河川改修が行われています。
我々は広場をお借りしてストレッチ後、喜多見駅で解散となりました。
有志は神泉の串カツ田中で反省会。たこ焼き職人の後継者もできてよかったです。帰宅途中にONCEへ突入しだらだらと飲み続けました。この反省会こそ、一番の反省点かもしれません。「わかっちゃいるけど、やめられない!」
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール