あけましておめでとうございます。年始の定番コースです。
今年になって初めてのウォーキングは5日と松の内なので七福神コースは混んでいるかと思いきや、思ったほどではなかったのでよかったです。すこやか歩こう会の参加者は27名で、通常よりちょっと多めといった感じです。
大鳥神社
下目黒村鎮守だった大鳥神社は九世紀の建立と言われています。境内掲示から引用します。
御由緒
景行天皇の御代(71~130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
酉の市(八つ頭と熊手の由来)
当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神徳として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。
稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社、八幡神社の総本社は宇佐神宮とあるので、大鳥神社の総本社も調べてみました。大阪府堺市にある大鳥大社だそうです。Wikipediaから引用します。
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。
延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。
くし塚
「くし塚」由来と参拝のご利益
日本では古来より「くし」は幸運のシンボルと考えられてきました。
日本最古の歴史書「古事記」によると、神祖伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は愛する妻伊邪那美命(イザナミノミコト)の死を悲しみ「黄泉国(死の世界)」へ会いに行くと、何と身体は腐って、蛆がたかっているので「この世」へ逃げ帰ります。
暗闇の死の世界から逃げるために髪に刺していた「竹くし」を抜いて火をつけ、松明代わりに道を明るく照らし生還されました。弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)と東国へ渡る際、浦賀水道で波風が荒くなり海神の怒りを鎮めるため、妃は海に身を投げ、身代わりなった妃の「くし」は浜に流れ着いて、今も祭られています。
「くし」はこのように人生の歩む道を照らし、身代わりになる力を持っています。
「くし塚」にお参りすると開運、無病息災、家内安全が得られます。
特に目黒大鳥神社の御祭神は目の病、成人病、糖尿病、ボケにかからない為に、又お苦しみの方々をお救いする神様です。
大勢の方々のご参拝をお待ちしています。
平成元年9月4日「くしの日」
奉納 美容習慣実行委員会
蟠龍寺(岩屋弁天)
おしろい地蔵
このお地蔵さまは関東大震災で被災をしたために、浅草より当寺へ移って来られたもので、お顔がかけている珍しいお地蔵さまです。
言い伝えによると、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘さんが、そのために人並みの結婚ができず悩んでおりましたが、このお地蔵さまに願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという故事にならい、若い女性がお参りに来られるようになったと言われております。
江戸時代には、歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に悩み、おしろいをお地蔵さまのお顔につけ願を掛けたと言われており、現在でもこのようにしてお参りをされる方を時折お見かけします。
いつの世も美しくなりたいという願いは変わらないようですが、一番大切なことは、心を常に美しく養い保つことで、美しい心が美人をつくるということではないでしようか。
霊雲山 幡龍寺
目黒不動尊参道入口
蛸薬師 成就院
成就院(天台宗)
下目黒3-11-11
天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。
この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752-1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。
境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。
平成3年3月
目黒区教育委員会
ロウバイが咲いています。以前はこの盆栽にフクジュソウが植えられていたのですが最近見ることがなく残念です。
安養寺
ロウバイ
石仏が多く、インド的な特徴を持つ狛犬が印象的です。葉を落としてロウバイが咲くものと思っていたのですが、多くの葉に花が混じっているは珍しいですね。
目黒不動瀧泉寺(恵比寿)
水かけ不動
大日如来坐像
露店が出ており一番お正月らしい感じでした。目黒台の台地を羅漢寺川が削った上に本堂があり、崖からは水が湧いています。かつては滝ほどの勢いがあったようで、江戸末期には渋谷常盤台の薩摩藩邸詰めだった西郷吉之助が、島津斉彬の病平癒を願い水ごりをしました。
大日如来坐像のまわりには四天王が配置されお守りしています。
青木昆陽墓
青木昆陽 墓
国指定史跡
所在地 目黒区下目黒3-20-26滝泉寺内
指 定 昭和18年5月1日
江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
彼は八代将軍徳川吉宗 の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。また、『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために”甘藷 先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和6年(1769)歿。行年72歳。
昭和62年3月21日建設
東京都教育委員会
目黒区みどりの散歩道
目黒雅叙園
太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により平成3年11月に完成した。
小学生の頃に見ていたのは太鼓でしたが、二代目だったのですね。コンクリートで作られていたように思います。その後川幅を広げたためアーチ型の橋が架けられなかったものと思われます。
妙円寺(福禄寿・寿老人)
紅梅が数輪咲いていました。色のない季節に紅梅やロウバイが良いアクセントになります。こちらの紅梅、昨年より花の数が少ないようですが、今年の花は少し遅めなのかな?
瑞聖寺(布袋尊)
昨年はなかったと思うのですが、新しい建物が出来上がっていました。水盤に移る本堂がきれいです。
毘沙門天
覚林寺の水かけ地蔵
昨年病平癒をお願いしたお地蔵さまに、お礼参りが出来ました。
覚林寺(毘沙門天)
港区指定有形文化財 建造物 清正公堂 及び山門
覚林寺は弘化二年(一八四五)の大火で全焼し、山門は安政三年(一八五六)、清正公堂は慶応元年(一八六五)に再建されたものです。
清正公堂は拝殿(はいでん)・幣殿(へいでん)・本殿(ほんでん)からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門 は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門(やくいもん)であり、両側に脇戸が付きます斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
平成十九年十月二十三日指定
港区教育委員会
明治学院白金チャペル
東京消防庁 高輪消防署二本榎出張所
東京消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。
池田山公園
雪つりのきれいな品川区立の公園です。近くに旧正田邸があり「池田山公園へ行ったら、旧正田邸にも行ってみよう」と思っていたのですが、この看板を目にしなかったら忘れていたかもしれません。こちらのロウバイは昨年同様まだ蕾でした。東向き斜面なので、この時期日照時間が短いためでしょうか。
インドネシア大使館
ねむの木の庭(旧正田邸)
『ねむの木の庭』について
この公園は、皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地に開設したものです。
昭和9年10月20日、正田家の長女としてお生まれになった皇后さまは、昭和34年4月10日、民間初の皇太子妃として皇太子殿下(現・天皇陛下)のもとへ、この地より嫁がれました。
品川区は、平成15年にこの土地を譲り受け、皇后さまがお誕生からご成婚までを過ごされた場所にふさわしい公園として整備しました。この公園には、ご成婚当時の門を再現している他、皇后さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていただいた方それぞれが皇后さまに思いを馳せていただけるようにしました。
またこの公園の園名は、皇后さまが高校生時代におつくりになった詩『ねむの木の子守歌』や、皇室に入られた後にお詠みになったお歌の中でも使われたゆかりの樹木「ねむのき」にちなんで命名いたしました。
平成16年8月 品川区長 高橋久二
産経新聞からも引用します。
両陛下、旧正田邸跡の公園ご散策
2018.6.24 18:35
天皇、皇后両陛下は24日夕、皇后さまの生家である旧正田邸の跡地に整備された東京都品川区の公園「ねむの木の庭」を私的に訪れ、散策を楽しまれた。
園内には、皇后さまのお印であるシラカバなどがあり、皇太子妃時代に英国から贈られたバラ「プリンセスミチコ」が花を咲かせていた。
案内をした浜野健品川区長によると、天皇陛下はシラカバについて「大きくなりましたね」と述べられ、皇后さまは公園管理者からプリンセスミチコの花びらで作ったポプリを受け取り「いい香りですね」と喜ばれていたという。
タイ大使公邸
目黒駅近くの児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。都バスの操車場跡地の東京建物の大きなビルがオープンして、目黒駅の東口はずいぶん雰囲気が変わりましたね。
天狗目黒西口店(外国人店員が多いので『天狗インターナショナル』と呼んでいます)で、いつもの飲み仲間と新年会をして、解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
今年になって初めてのウォーキングは5日と松の内なので七福神コースは混んでいるかと思いきや、思ったほどではなかったのでよかったです。すこやか歩こう会の参加者は27名で、通常よりちょっと多めといった感じです。
大鳥神社
下目黒村鎮守だった大鳥神社は九世紀の建立と言われています。境内掲示から引用します。
御由緒
景行天皇の御代(71~130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
酉の市(八つ頭と熊手の由来)
当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神徳として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。
稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社、八幡神社の総本社は宇佐神宮とあるので、大鳥神社の総本社も調べてみました。大阪府堺市にある大鳥大社だそうです。Wikipediaから引用します。
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。
延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。
くし塚
「くし塚」由来と参拝のご利益
日本では古来より「くし」は幸運のシンボルと考えられてきました。
日本最古の歴史書「古事記」によると、神祖伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は愛する妻伊邪那美命(イザナミノミコト)の死を悲しみ「黄泉国(死の世界)」へ会いに行くと、何と身体は腐って、蛆がたかっているので「この世」へ逃げ帰ります。
暗闇の死の世界から逃げるために髪に刺していた「竹くし」を抜いて火をつけ、松明代わりに道を明るく照らし生還されました。弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)と東国へ渡る際、浦賀水道で波風が荒くなり海神の怒りを鎮めるため、妃は海に身を投げ、身代わりなった妃の「くし」は浜に流れ着いて、今も祭られています。
「くし」はこのように人生の歩む道を照らし、身代わりになる力を持っています。
「くし塚」にお参りすると開運、無病息災、家内安全が得られます。
特に目黒大鳥神社の御祭神は目の病、成人病、糖尿病、ボケにかからない為に、又お苦しみの方々をお救いする神様です。
大勢の方々のご参拝をお待ちしています。
平成元年9月4日「くしの日」
奉納 美容習慣実行委員会
蟠龍寺(岩屋弁天)
おしろい地蔵
このお地蔵さまは関東大震災で被災をしたために、浅草より当寺へ移って来られたもので、お顔がかけている珍しいお地蔵さまです。
言い伝えによると、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘さんが、そのために人並みの結婚ができず悩んでおりましたが、このお地蔵さまに願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという故事にならい、若い女性がお参りに来られるようになったと言われております。
江戸時代には、歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に悩み、おしろいをお地蔵さまのお顔につけ願を掛けたと言われており、現在でもこのようにしてお参りをされる方を時折お見かけします。
いつの世も美しくなりたいという願いは変わらないようですが、一番大切なことは、心を常に美しく養い保つことで、美しい心が美人をつくるということではないでしようか。
霊雲山 幡龍寺
目黒不動尊参道入口
蛸薬師 成就院
成就院(天台宗)
下目黒3-11-11
天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。
この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752-1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。
境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。
平成3年3月
目黒区教育委員会
ロウバイが咲いています。以前はこの盆栽にフクジュソウが植えられていたのですが最近見ることがなく残念です。
安養寺
ロウバイ
石仏が多く、インド的な特徴を持つ狛犬が印象的です。葉を落としてロウバイが咲くものと思っていたのですが、多くの葉に花が混じっているは珍しいですね。
目黒不動瀧泉寺(恵比寿)
水かけ不動
大日如来坐像
露店が出ており一番お正月らしい感じでした。目黒台の台地を羅漢寺川が削った上に本堂があり、崖からは水が湧いています。かつては滝ほどの勢いがあったようで、江戸末期には渋谷常盤台の薩摩藩邸詰めだった西郷吉之助が、島津斉彬の病平癒を願い水ごりをしました。
大日如来坐像のまわりには四天王が配置されお守りしています。
青木昆陽墓
青木昆陽 墓
国指定史跡
所在地 目黒区下目黒3-20-26滝泉寺内
指 定 昭和18年5月1日
江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
彼は八代将軍徳川吉宗 の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。また、『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために”甘藷 先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和6年(1769)歿。行年72歳。
昭和62年3月21日建設
東京都教育委員会
目黒区みどりの散歩道
目黒雅叙園
太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により平成3年11月に完成した。
小学生の頃に見ていたのは太鼓でしたが、二代目だったのですね。コンクリートで作られていたように思います。その後川幅を広げたためアーチ型の橋が架けられなかったものと思われます。
妙円寺(福禄寿・寿老人)
紅梅が数輪咲いていました。色のない季節に紅梅やロウバイが良いアクセントになります。こちらの紅梅、昨年より花の数が少ないようですが、今年の花は少し遅めなのかな?
瑞聖寺(布袋尊)
昨年はなかったと思うのですが、新しい建物が出来上がっていました。水盤に移る本堂がきれいです。
毘沙門天
覚林寺の水かけ地蔵
昨年病平癒をお願いしたお地蔵さまに、お礼参りが出来ました。
覚林寺(毘沙門天)
港区指定有形文化財 建造物 清正公堂 及び山門
覚林寺は弘化二年(一八四五)の大火で全焼し、山門は安政三年(一八五六)、清正公堂は慶応元年(一八六五)に再建されたものです。
清正公堂は拝殿(はいでん)・幣殿(へいでん)・本殿(ほんでん)からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門 は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門(やくいもん)であり、両側に脇戸が付きます斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
平成十九年十月二十三日指定
港区教育委員会
明治学院白金チャペル
東京消防庁 高輪消防署二本榎出張所
東京消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。
池田山公園
雪つりのきれいな品川区立の公園です。近くに旧正田邸があり「池田山公園へ行ったら、旧正田邸にも行ってみよう」と思っていたのですが、この看板を目にしなかったら忘れていたかもしれません。こちらのロウバイは昨年同様まだ蕾でした。東向き斜面なので、この時期日照時間が短いためでしょうか。
インドネシア大使館
ねむの木の庭(旧正田邸)
『ねむの木の庭』について
この公園は、皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地に開設したものです。
昭和9年10月20日、正田家の長女としてお生まれになった皇后さまは、昭和34年4月10日、民間初の皇太子妃として皇太子殿下(現・天皇陛下)のもとへ、この地より嫁がれました。
品川区は、平成15年にこの土地を譲り受け、皇后さまがお誕生からご成婚までを過ごされた場所にふさわしい公園として整備しました。この公園には、ご成婚当時の門を再現している他、皇后さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていただいた方それぞれが皇后さまに思いを馳せていただけるようにしました。
またこの公園の園名は、皇后さまが高校生時代におつくりになった詩『ねむの木の子守歌』や、皇室に入られた後にお詠みになったお歌の中でも使われたゆかりの樹木「ねむのき」にちなんで命名いたしました。
平成16年8月 品川区長 高橋久二
産経新聞からも引用します。
両陛下、旧正田邸跡の公園ご散策
2018.6.24 18:35
天皇、皇后両陛下は24日夕、皇后さまの生家である旧正田邸の跡地に整備された東京都品川区の公園「ねむの木の庭」を私的に訪れ、散策を楽しまれた。
園内には、皇后さまのお印であるシラカバなどがあり、皇太子妃時代に英国から贈られたバラ「プリンセスミチコ」が花を咲かせていた。
案内をした浜野健品川区長によると、天皇陛下はシラカバについて「大きくなりましたね」と述べられ、皇后さまは公園管理者からプリンセスミチコの花びらで作ったポプリを受け取り「いい香りですね」と喜ばれていたという。
タイ大使公邸
目黒駅近くの児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。都バスの操車場跡地の東京建物の大きなビルがオープンして、目黒駅の東口はずいぶん雰囲気が変わりましたね。
天狗目黒西口店(外国人店員が多いので『天狗インターナショナル』と呼んでいます)で、いつもの飲み仲間と新年会をして、解散となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール