渋谷川をたどり恵比寿に至るコースは初め金王八幡宮を経由するコースを歩きました。のちに渋谷リバーストリートが整備された際、今回の渋谷ストリーム経由のコースを追加し歩きました。このコースは三回目くらいかな?毎回変わりゆく渋谷の街を楽しんでいます。
雷電稲荷神社
都立新宿高校
地図を確認して「旭橋の石柱と石樋」を見ようと思っていたのですが、雷電神社に気を取られて見落としたようです。
明治通りバイパス
少し前に明治通りを歩いていて渋谷側から見たのですが、今回は新宿側から。内回りが地上で外回りがトンネルの二階建て構造。12月3日から運用開始で、新宿三丁目交差点の渋滞解消が見込まれます。
玉川上水・内藤新宿分水散歩道
ホトトギス
新宿御苑大木戸門
玉川上水は四谷大木戸まで開渠でその先は地下の木樋や石樋を通り江戸の上水道の役目を果たしていました。四谷大木戸には水番所がおかれ、余った水は渋谷川(穏田川が宇田川と合流して渋谷川となり笄川と合流して古川となる)に流されていたので、今回のコースと大いに関係があります。
この場所を始めてウォーキングで訪れたのは玉川上水を羽村から数回に分けて歩く企画でした。企画のゴールを果たした後、随園別館で水餃子、野菜炒めなどを堪能しました。
内藤新宿宿開設三百年記念碑
元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、 平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えることとなった。
新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。
平成十年十一月
東京都新宿区
玉川上水
玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加に伴う水不足を解消するために、承応二年(1653)から翌三年(1654)にかけて開削した水路である。
上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
工事は江戸の町人である庄右衛門、清右衛門が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊那忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士安松金右衛門の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
掘割によって出た土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などを作り(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽場所となった。
平成三十年三月
新宿区教育委員会
四谷大木戸跡
多武峯内藤神社
駿馬塚
石碑
鉛筆の碑
この地(多武峯内藤神社の西側付近は、明治二十年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(1916)品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして鉛筆が造られていました。
平成十八年十月
寄贈 三菱鉛筆株式会社
資料提供 新宿区教育委員会
穏田川跡
川跡にある派出所
伝 沖田総司逝去の地
この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。
平成二十六年三月
新宿区
新宿御苑正門
穏田川暗渠にある大番児童遊園
国立競技場
TOKYO 2020 メダリストのレリーフ
国立競技場
オリンピックシンボル
ザ・コート神宮外苑
タイガースショップ
穏田川を一度離れ国立競技場を半周したのち穏田川跡(キラー通り)に戻ってきました。
原宿橋の柱
穏田キャットストリート商店会
金の卵と宮下公園
渋谷キャスト
宮下公園
渋谷キャストは渋谷ストリームと同じような階段がありました。
渋谷スクランブルスクエア
渋谷フクラスとセルリアンタワー東急ホテル
渋谷マークシティ
銀座線渋谷駅
かまぼこ屋根のモニュメント
渋谷ストリーム
変わりゆく渋谷の街です。
渋谷リバーストリート
旧東横線の橋脚
渋谷川の向こうに渋谷の巨大ビル
鎌倉道
渋谷三丁目15番
この右手の細い道を、古くから鎌倉道 と呼び、源氏 が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道 のひとつといわれています。
ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。
また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。
大永四年(1524)に、相模の北条軍 がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
渋谷区教育委員会
たこ公園のコウホネ
トイレの撮影をしてるみたい
更に渋谷川沿いを下り恵比寿東公園がゴールで、ストレッチをして解散しました。
気温が上がりちょっと暑かったので「おいしいビールが飲みたいね」という話になり、恵比寿アトレのライオンで久しぶりの反省会がありました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
雷電稲荷神社
都立新宿高校
地図を確認して「旭橋の石柱と石樋」を見ようと思っていたのですが、雷電神社に気を取られて見落としたようです。
明治通りバイパス
少し前に明治通りを歩いていて渋谷側から見たのですが、今回は新宿側から。内回りが地上で外回りがトンネルの二階建て構造。12月3日から運用開始で、新宿三丁目交差点の渋滞解消が見込まれます。
玉川上水・内藤新宿分水散歩道
ホトトギス
新宿御苑大木戸門
玉川上水は四谷大木戸まで開渠でその先は地下の木樋や石樋を通り江戸の上水道の役目を果たしていました。四谷大木戸には水番所がおかれ、余った水は渋谷川(穏田川が宇田川と合流して渋谷川となり笄川と合流して古川となる)に流されていたので、今回のコースと大いに関係があります。
この場所を始めてウォーキングで訪れたのは玉川上水を羽村から数回に分けて歩く企画でした。企画のゴールを果たした後、随園別館で水餃子、野菜炒めなどを堪能しました。
内藤新宿宿開設三百年記念碑
元禄十一年(一六九八)六月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約一kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
この宿場は、享保三年(一七一八)に一旦廃止されたが、五十四年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、 平成十年(一九九八)、開設三百年を迎えることとなった。
新都心・新宿の出発点となった内藤新宿の歴史と先人の歩みを記念し、ここに記念碑を建立する。
平成十年十一月
東京都新宿区
玉川上水
玉川上水は幕府が江戸市中の拡大発展と人口の増加に伴う水不足を解消するために、承応二年(1653)から翌三年(1654)にかけて開削した水路である。
上水は多摩川の羽村に堰を設けて取水し、ここ内藤新宿の水番所までの四十三キロメートルは掘割で、ここより江戸市中へは地下に石樋、木樋といった水道管を埋設して給水した。また途中三十余ヶ所で分水され、武蔵野台地の新田開発に利用された。
工事は江戸の町人である庄右衛門、清右衛門が請負い、川越藩主松平信綱が総奉行を、関東郡代伊那忠治が水道奉行を命ぜられ、これを監督した。
玉川上水の工事は、途中幾多の困難に遭遇したが、川越藩士安松金右衛門の協力もあり、一年五ヶ月程という、短期間で完成した。
掘割によって出た土砂は掘割の両側に堤として積み上げ、桜並木などを作り(小金井など)、当時の江戸の人々の行楽場所となった。
平成三十年三月
新宿区教育委員会
四谷大木戸跡
多武峯内藤神社
駿馬塚
石碑
鉛筆の碑
この地(多武峯内藤神社の西側付近は、明治二十年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。三十年後の大正五年(1916)品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠となっている渋谷川を利用した水車を動力にして鉛筆が造られていました。
平成十八年十月
寄贈 三菱鉛筆株式会社
資料提供 新宿区教育委員会
穏田川跡
川跡にある派出所
伝 沖田総司逝去の地
この場所には、高遠藩主内藤家屋敷(現新宿御苑)に沿って流れる旧玉川上水の余水吐(渋谷川と呼ばれる)に池尻橋がかかっていました。
多くの歴史小説や映画などで、新撰組隊士沖田総司(1844~1868)が晩年に療養し、亡くなったとされる植木屋平五郎(柴田平五郎)の屋敷はこのあたりにありました。
平成二十六年三月
新宿区
新宿御苑正門
穏田川暗渠にある大番児童遊園
国立競技場
TOKYO 2020 メダリストのレリーフ
国立競技場
オリンピックシンボル
ザ・コート神宮外苑
タイガースショップ
穏田川を一度離れ国立競技場を半周したのち穏田川跡(キラー通り)に戻ってきました。
原宿橋の柱
穏田キャットストリート商店会
金の卵と宮下公園
渋谷キャスト
宮下公園
渋谷キャストは渋谷ストリームと同じような階段がありました。
渋谷スクランブルスクエア
渋谷フクラスとセルリアンタワー東急ホテル
渋谷マークシティ
銀座線渋谷駅
かまぼこ屋根のモニュメント
渋谷ストリーム
変わりゆく渋谷の街です。
渋谷リバーストリート
旧東横線の橋脚
渋谷川の向こうに渋谷の巨大ビル
鎌倉道
渋谷三丁目15番
この右手の細い道を、古くから鎌倉道 と呼び、源氏 が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道 のひとつといわれています。
ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。
また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。
大永四年(1524)に、相模の北条軍 がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
渋谷区教育委員会
たこ公園のコウホネ
トイレの撮影をしてるみたい
更に渋谷川沿いを下り恵比寿東公園がゴールで、ストレッチをして解散しました。
気温が上がりちょっと暑かったので「おいしいビールが飲みたいね」という話になり、恵比寿アトレのライオンで久しぶりの反省会がありました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
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