植物園内を歩くと5キロを超えるコースですが、集合場所の九段下駅から植物園までは約一時間で到着します。
九段会館
北の丸スクエア パブリックスペース
九段会館は震災で都内唯一の死者を出すほど被災しましたが、正面のイメージを残したまま立て替えられました。我々は北の丸スクエアのパブリックスペースでストレッチをしてスタートしました。
グランドパレスホテル跡
跡地のをのように活用するのか、三菱地所を中心とした企業グループにより検討中とのことです。一等地ですからね。グランドパレスと言えばドラフト会議と金大中事件。Wikipediaのグランドパレスの項目には金大中事件はふれられていないので「金大中事件」で調べてみました。1973年に起きた事件だったのですね。事件の詳細を知らなかったので一部Wikipediaから抜粋します。
事件の経緯
1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自民党左派の宇都宮徳馬らに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルグランドパレス2212号室に、病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。
午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面(神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁のヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。
拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。
北辰社牧場跡記念碑
飯田橋むかしむかし
北辰社を含む明治時代の牛乳事情について東京牛乳のサイトから長めに引用してみます。
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
榎本武楊(1836-1908)
江戸御徒町生まれの幕臣。幕府留学生としてオランダへ3年留学。戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領し『蝦夷共和国』を樹立して総裁になるが、明治2年、函館戦争で降伏。 その後、北海道開拓使に任官するなど、新政府でも活躍。
現在の目黒区役所は千代田生命本社の建物をそのまま利用していますがそれ以前その場所にはアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったと聞いてちょっと意外に思っていましたが、明治時代の東京の事情や牛乳の事情が分かればあの場所が牧場だったことは納得できますね。
徽章業発祥の地
山田吉邦弓具店
弓具店は残っていましたがソーセージのハライコはなくなってしまったようです。
駅前の外堀通り交差点
外堀通り
目白通りと神田川
外堀通り
日中友好会館
小石川後楽園庭園
中央大学
牛天神下交差点に中央大学の建物が出来ていました。もとはJTの社宅だったのかな。
都道434号
この先東京ドーム付近では、自転車専用スペースを避けて車が駐車していました。
特別養護老人ホームを守る鍾馗(しょうき)様
知らなかった風習なのでWikipediaから引用しておきます。
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
萩の舎跡
塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、えどにあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪(ちなみ)に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人(よりうど)伊藤佑命(すけのぶ)、小出粲(つばら)の援助で、おもに上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集に「萩のしづく」などがある。1903(明治36)年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉(1872~1896)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。1892(明治23)年18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の「薮の鶯」の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」(明治25年)を発表し、小説家の道に進んだ。
近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
文京区教育委員会 平成23年3月
安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会 平成8年3月
学芸大学と都立竹早高校
伝通院前を左折し春日通りを西へ向かいます。
播磨坂桜並木
鳩
共同印刷本社
播磨坂を下ると間もなくゴールです。
コダチダリア
イロハモミジ
精子発見のイチョウ
リンゴ?
関東大震災記念碑
ナンテン
センリョウ
シマサルスベリ
カリン
松
センリョウ
松ぼっくり
水鏡
イチョウ
メタセコイアの気根
メタセコイア
タイミンチク
メタセコイアと飛行機雲
小石川植物園に入場し、ストレッチをして解散。秋の景色を満喫して帰途につきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
九段会館
北の丸スクエア パブリックスペース
九段会館は震災で都内唯一の死者を出すほど被災しましたが、正面のイメージを残したまま立て替えられました。我々は北の丸スクエアのパブリックスペースでストレッチをしてスタートしました。
グランドパレスホテル跡
跡地のをのように活用するのか、三菱地所を中心とした企業グループにより検討中とのことです。一等地ですからね。グランドパレスと言えばドラフト会議と金大中事件。Wikipediaのグランドパレスの項目には金大中事件はふれられていないので「金大中事件」で調べてみました。1973年に起きた事件だったのですね。事件の詳細を知らなかったので一部Wikipediaから抜粋します。
事件の経緯
1973年(昭和48年)7月、世界でも「民主主義の活動家」として高い名声を得るようになっていた金大中は、日本の自民党左派の宇都宮徳馬らに招待され、講演するため東京を訪問した。当時のことを金は「私が東京に着いたとき、友人達が在日韓国朝鮮人のヤクザたちが私を狙っていると忠告してくれました。在日韓国朝鮮人のヤクザたちは大韓民国居留民団(民団)やKCIAと強い結びつきがあるのです」と後のインタビューで語っている。すぐに亡命者生活に入り、2・3日ごとにホテルを変え、日本人の偽名を使った。
1973年(昭和48年)8月8日午前11時頃、金は東京のホテルグランドパレス2212号室に、病気療養のため宿泊していた梁一東民主統一党(当時)党首に招かれ会談した。前年開業した同ホテル(東京都千代田区飯田橋1-1-1)は、九段下交差点を飯田橋方面に入ってすぐにあり、裏路地からは朝鮮総連本部に至近の場所に位置している。
午後1時19分ごろ、会談を終えた金は2212号室を出たところを6、7人に襲われ、空部屋だった2210号室に押し込まれ、クロロホルムを嗅がされて意識が朦朧となった後、4人により、エレベーターで地下に降ろされ自動車に乗せられた。パレスホテルから自動車で関西方面(神戸市)のアジトに連れて行き、その後、工作船(コードネームは龍金〈ヨングム〉号)で、神戸港から日本を出国したと見られる。朦朧とした意識の中「『こちらが大津、あちらが京都』という案内を聞いた」と金大中は証言している。
金大中は「船に乗るとき、足に重りをつけられた」、「海になげこまれそうになった」と後日語っている。しかし事件を察知した(当時の厚生省高官の通報によるとされる。またアメリカ合衆国連邦政府も、このことを察知していたとされる)海上保安庁のヘリコプターが拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、日本国政府に拉致の事実が発覚したことを悟った拉致実行犯は、金大中の殺害を断念し釜山まで連行し、ソウル特別市で解放したとされている。金大中自身、日本のマスコミとのインタビューで、甲板に連れ出され、海に投下されることを覚悟したときに、追跡していた日本のヘリコプターが照明弾を投下したと証言している。
拉致から5日後、金大中はソウルの自宅近くのガソリンスタンドで解放され、自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚 明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚 神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。
北辰社牧場跡記念碑
飯田橋むかしむかし
北辰社を含む明治時代の牛乳事情について東京牛乳のサイトから長めに引用してみます。
初めは荒廃した武家屋敷跡の開墾、武士の失業対策から
江戸幕府が崩壊して明治になると、江戸幕府を支えてきた幕臣は静岡に移封され、諸大名の江戸屋敷も廃止されたため、新首都東京の中心部では、多くの屋敷跡が廃墟となって残っていた。そうした屋敷は、武士の失業対策もかねて払い下げられ、農業のほかに酪農の牧場として利用され、明治6年には、すでに都心部に7軒の牧場があったという。
てっきり、北海道大学の前身である札幌農学校をルーツとするのかと思っていたが、同校の開校は明治9年だから、東京の酪農はそれに先駆けていたことになる。 また、戊辰戦争で有名な榎本武楊は、明治時代の飯田橋に「北辰社」という牧場を持っていたほか、東京農大の前身である「育英学農業科」の初代学長にもなっているそうだ。これは彼が、江戸末期に酪農の本場オランダに3年間留学していたことと関係しているに違いない。
ではなぜ東京の中心部で酪農が発達していたのだろう?
上に述べたような政府の方針のほかに、牛乳の消費者の中心が外国人や新しもの好きの江戸っ子だったこと、当時は輸送手段が整備されていなかったこと、保存手段が無く毎日配達する必要があったこと、乳牛の飼料である粕の入手が容易だったことなどに関係している。こうした状況は、明治から大正、昭和の初めまで続き、明治32年には、3,000頭が飼育されていたという。その後、酪農の中心は区部から多摩地域へと変わり、戦後、近郊酪農の進行とともに酪農を取り入れた農業が盛んに行われるようになっていく。『東京牛乳』の生産者の方々も、全て多摩地域である。
現在では政治やビジネスの中心地である都心部で、のんびりと乳牛が草を食んでいたと思うと笑えるが、理由を考えると納得だ。
都内で牧場が多かった地区に、文京区も挙げられる。明治の元勲・山県有朋が出資して、明治10年代に雑司が谷村に牧場を開設、清戸坂の道沿いに平田貞次郎に開かせた平田牧場には、売店もあって、「KANSEI USHINOTITI(官製 牛の乳)」というローマ字の旗を掲げて小売も行っていたそうだ。当時の人は、旗ざおの文字を読めたのだろうか、売れ行きはどうだったのだろう?
明治中期の文京区には、20軒近い牧場があったという。現在でも文京区は緑やアップダウンの多い地域なので、牧場を開くのには、最適だったに違いない。
想像の中の明治の姿と変わってしまった現在の姿とを対比させながら東京の酪農に思いを馳せ、都内を散歩してみてはいかがだろうか。
榎本武楊(1836-1908)
江戸御徒町生まれの幕臣。幕府留学生としてオランダへ3年留学。戊辰戦争では、江戸陥落後に徳川残存艦隊を率い蝦夷箱舘へ脱出、蝦夷地を占領し『蝦夷共和国』を樹立して総裁になるが、明治2年、函館戦争で降伏。 その後、北海道開拓使に任官するなど、新政府でも活躍。
現在の目黒区役所は千代田生命本社の建物をそのまま利用していますがそれ以前その場所にはアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったと聞いてちょっと意外に思っていましたが、明治時代の東京の事情や牛乳の事情が分かればあの場所が牧場だったことは納得できますね。
徽章業発祥の地
山田吉邦弓具店
弓具店は残っていましたがソーセージのハライコはなくなってしまったようです。
駅前の外堀通り交差点
外堀通り
目白通りと神田川
外堀通り
日中友好会館
小石川後楽園庭園
中央大学
牛天神下交差点に中央大学の建物が出来ていました。もとはJTの社宅だったのかな。
都道434号
この先東京ドーム付近では、自転車専用スペースを避けて車が駐車していました。
特別養護老人ホームを守る鍾馗(しょうき)様
知らなかった風習なのでWikipediaから引用しておきます。
京都市内の民家(京町家)など近畿 - 中部地方では、現在でも大屋根や小屋根の軒先に10 - 20cm大の瓦製の鍾馗の人形が置いてあるのを見かけることができる。これは、昔京都三条の薬屋が立派な鬼瓦を葺いたところ向かいの家の住人が突如原因不明の病に倒れ、これを薬屋の鬼瓦に跳ね返った悪いものが向かいの家に入ったのが原因と考え、鬼より強い鍾馗を作らせて魔除けに据えたところ住人の病が完治したのが謂れとされる。
萩の舎跡
塾主中島歌子(1844~1903)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、えどにあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪(ちなみ)に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人(よりうど)伊藤佑命(すけのぶ)、小出粲(つばら)の援助で、おもに上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集に「萩のしづく」などがある。1903(明治36)年歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉(1872~1896)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。1892(明治23)年18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の3人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の「薮の鶯」の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」(明治25年)を発表し、小説家の道に進んだ。
近くの牛天神北野神社(春日1-5-2)境内に中島歌子の歌碑がある。
文京区教育委員会 平成23年3月
安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網干坂」ともよばれた。
文京区教育委員会 平成8年3月
学芸大学と都立竹早高校
伝通院前を左折し春日通りを西へ向かいます。
播磨坂桜並木
鳩
共同印刷本社
播磨坂を下ると間もなくゴールです。
コダチダリア
イロハモミジ
精子発見のイチョウ
リンゴ?
関東大震災記念碑
ナンテン
センリョウ
シマサルスベリ
カリン
松
センリョウ
松ぼっくり
水鏡
イチョウ
メタセコイアの気根
メタセコイア
タイミンチク
メタセコイアと飛行機雲
小石川植物園に入場し、ストレッチをして解散。秋の景色を満喫して帰途につきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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