このコースは渋谷区のサイトに掲載されていたのですが、現在掲載されている「シブヤウォーキングマップ」には掲載されていません。原宿界隈を知るにはよいコースですが時間帯によっては人が多くウォーキングには不向きということかな?
すこやか歩こう会では8月8日のコースとして設定し雨で流れ、9月18日の再設定も雨で流れました。三度目の正直となりましたが、11月から4月は午後の活動となっていることを失念していました。日曜日の午後、原宿の活気を知るにはよい機会となりましたが人が多くウォーキングには不向きでした。
代々木体育館
NHK杯フィギュアスケートのエキシビションが行われていました。
五輪橋
竹下通り
一本北の道
五輪橋を渡ると原宿駅から表参道方面へ向かう人の波で身動きが取れないほどです。混雑を避け竹下通りの一本北の道で東郷神社へ向かいます。会員には「希望者は竹下通りを歩いてもいいですよ」と言ってあったのですが、だれもこの混雑の中を突き進む勇気はなかったようです。
東郷神社
東郷記念館
祈念旗
竹下通りの混雑と比べると東郷神社は落ち着いたもので、七五三参りの家族が何組かいる程度です。東郷記念館は改装中のようでお庭にも入ることが出来ません。「Z旗」、国際信号旗のZ旗には「勝利」の意味はないのですが、東郷平八郎がこの旗を特別なものにしたとのこと。
スニーカーショップ
表参道
キャットストリートのたこ焼き
ティファニー
竹下通りを抜けて明治通りを横断するスニーカーショップがたくさんある道は竹下通りなのかな?裏原宿の入口というイメージですが、私自身裏原宿が分かっていないかもしれません。歩道橋で表参道を横断するとキャットストリート。ティファニーの猫が分からなかったけど、キャットストリートにちなんだデザインでしょうか。ブラタモリのパイロット版ではこのたこ焼き屋さんでたこ焼き買って久保田アナと二人で食べていたと記憶しています。「ティファニーでたこ焼きを」なんてパロディーを考えていたらふと「下落合焼とりムービー」を思い浮かべネットで検索。めずらしく小森のおばちゃまが酷評したというこの映画をちょっと見てみたい気になりました。時間の無駄か?
穏田神社拝殿
河野タカ
神輿
河野タカさんは明治時代の教育者で神社の氏子とのこと。末社の稲荷神社を再建に携わったということでここにいらっしゃるのかな。穏田を調べているといろいろ興味深い記述が見つかり、「穏田マンション」は岸田総理と関連がある。古くからの住人に聞いてみようかな。
神宮前社宅
好立地にある団地は都営住宅かと思いましたが公務員住宅のようです。外壁塗装したのか大規模修繕したのか奇麗になりました。同じ一角に「大山柏邸跡」があるので、大山巌公爵の邸宅の跡地かもしれません。
表参道のケヤキ
表参道のライトアップは一時行っていなかったと思うのですが、今年はライトアップを行うようで、電球がついています。たぶんLEDだと思うので、電球と言ってよいのかどうか。ケヤキは日本では一般的な木ですが、欧米ではそうでもないようです。Wikipediaから引用してみます。
分布
朝鮮半島、中国、台湾と日本に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。
自然分布の他に、人の手によって街路や公園、人家のまわりにも植えられたものもよく見られる。
ケヤキを英語で“zelkova”と言いますが、この単語は英語圏に人にもなじみがないようで通じません。“a kind of elm”と言うと分かってもらえます。“elm”は楡の木です。楡もWikipediaから引用してみましょう。
象徴
ヨーロッパでは楡と葡萄は良縁の象徴とされる。この風習は元々はイタリア由来とされ、以下のような話がある。古代ローマ時代からイタリアではブドウを仕立てる支柱としてニレを使うために、ブドウ畑でニレも一緒に栽培していた。成長したニレは樹高3m程度のところで幹を切断する。ニレは萌芽を出すのでこれを横方向に仕立ててぶどうの蔓を絡ませてやるのだという。古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius、紀元前43-紀元前26年)はこれを見ていたく感動し、ulmus amat vitem, vitis non deserit ulmum(意訳:楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない)という詩を読んだ。
この話はローマ神話の神で恋仲だった季節の神ウェルトゥムヌスと果実の神ポーモーナの話としても好まれ、ルネサンス時代には絵画の題材としてもよく描かれた。
他にも北欧神話に登場する人類最初の男女アスクとエムブラのうちのエムブラ(女)が最高神オーディンに息を吹きかけられたニレから生まれたとされる。ギリシア神話では詩人で竪琴の名手だったオルペウスが妻の死を悼みニレの木の下で泣いたとされ、悲しみの象徴とされることもある。
楡の木はヨーロッパでおなじみのようですね。
まい泉青山本店
今年のお鷹狩りのコースだった都営青山北町アパートにはもともと風呂がついていなかったのでみんな銭湯に通っており、その銭湯の跡がとんかつ屋になったと聞いていました。「まい泉=銭湯を居抜きで利用」との印象が強かったのですがちょっと違っていたようです。少し長くなりますがまい泉のサイトから引用します。
【コラム】まい泉青山本店レストラン「西洋館」の工事中に、驚きの遺跡発掘?!
まい泉青山本店レストランは1978(昭和53)年に開業し、1983(昭和58)年には隣接していた銭湯「神宮湯」の廃業にともない、その建物を譲り受け、「西洋館」という名のダイニングルームを増設して営業してきました。この「西洋館」はお客様から『旧き良き昭和の日本建築に懐かしさを感じる』『天井が高くて、ゆったりした気分でお食事ができる』など、国内外のお客様から長らくご愛顧をいただいてまいりました。
今年の2月より青山本店レストランの改修工事をおこなっていますが、「西洋館」の工事中、思いがけずかつての「神宮湯」の名残りが見つかりました。そこで、銭湯文化研究の第一人者で、かつての「神宮湯」をご存知の社団法人 日本銭湯文化協会理事 町田 忍様に現場をみていただき、おはなしを伺いました。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
さて以下が神宮湯銭湯時代のわかったことです。
1982(昭和57)年ころまで営業。創業は不明。典型的な東京型銭湯の代表格の様式です。特徴は宮造り型。脱衣場天井は格子状の社寺風の最上級の「折り上げ格天井」の吹き抜け(脱衣場が吹き抜けは東京型銭湯の特徴)であった。
庭は富士山から運んだ溶岩と高級な大きな庭石、創業時は錦鯉がいたと思われます。建築年代はその外観の様式からして戦後から1965(昭和40)年ころまでと思われます。
■浴室・・ペンキ絵
湯船が壁際にある東京型銭湯・その上にペンキ絵背景画があります。絵の下には近所のおみせの広告看板(業界用語でコマ)がはいるスペースが残っています。これはかつて銭湯専門の広告代理店が地域ごとにあり、そこに所属する絵師が描きました。神宮湯場所からして「美虹社」(現在消滅)という広告代理店が担当しており、絵はおそらく年代からしてそこに所属していた「木村進」さん(故人)が描いた絵と推測されます。当時広告が年に一回更新時ごとに集金、その代金で年一回無料で新しい絵にしていたのです。したがって銭湯は費用を負担することなく毎年新しい絵になりました。
このようにペンキ絵は本来1年という短い期間しか残されていないわけで、そのことからするとまい泉さんのこの絵は40年以上前の大変貴重な絵で銭湯文化遺産といっても過言でない絵と思います。
■タイル絵
左浴室ペンキ絵下に小さいタイル絵があります。鯉の尻尾の部分です。これは九谷焼です。この部分に鯉のタイル絵があるのは昭和40年代までの東京の銭湯に多くみられました。なぜならばこれらタイル絵は全ては金沢のタイル店『鈴木建材店」のご主人が戦前から見本帳を持って全国をセールスした結果でした。とくに東京の銭湯のオーナーの約8割が北陸(石川・新潟・富山)出身でしたので、石川県の金沢などで生産されていた九谷焼はその高級感と故郷に近いこともあり盛んに利用されました。またこの地域は鯉の生産地としても有名でした。
神宮湯のタイル絵を描いたのは金沢にいた石田庄太郎さん(画名「章仙」)は大正3年生まれ(故人)。都内の多くの銭湯のタイル絵を手がけました。神宮湯に残ってるのはわずか4枚ほどですが。同じタイル絵の完全版は現在、渋谷のもと同潤会文化アパートの敷地にある公園に記念で残されています。
以前、章仙さんにインタビューした際「鯉の絵が多いのは、お客コイコイと登竜門の縁起からで、12匹描くことが多かったのは12ヶ月お客コイコイからです」との話でした。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
いかがでしたか?文中に出てくる、ペンキ絵やタイル絵はお客様にはご覧頂けませんが、この「神宮湯」の名残や思い出は大事に次世代に引き継いでいきたい、という思いから、ご紹介させていただきました。「西洋館」は7月末には改修工事を終え、リニューアルオープンをさせていただきます。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。
原宿発祥の地
妙圓寺境内にあります。
自昌院自筆法華経 (じしょういんじひつほけきょう)八巻 附函
神宮前三丁目8番9号 日蓮宗 蓮光山 妙圓寺
区指定有形文化財 平成二十八年十一月二十一日
妙園寺が所蔵する法華経八巻は、広島藩二代藩主浅野光晟(みつあきら)の正室である自昌院(満姫(まんひめ))により、万治二年(1659)二月三日に写経されました。
巻子本(かんすぼん)に仕立てられたこれらの経典は、見返しに箔地に日輪と月輪及び文殊と普賢菩薩が描かれ、鳥の子紙を使用した写経料紙には、金泥(きんでい)による優美な装飾が施されています。
自昌院は、加賀藩三代藩主前田利常(としつね)の娘として、元和五年(1619)十二月十五日に金沢で誕生しました。母親は、徳川秀忠の娘珠姫(たまひめ)です。その関係からか、満姫は徳川家光の養女となって、寛永十二年(1635)九月に浅野光最に嫁ぎました。満姫は、万治元年(1658)十月十二日に実父利常の死去をうけて剃髪したようで、自昌院と号しました。自昌院は熱心な日蓮宗信者で、維司ヶ谷の鬼子母神堂や広島の菩提寺となる自昌山國前寺(こくぜんじ)を建立しています。
法華経は、自昌院の写経にみられるように、日蓮宗の根本経典であるばかりでなく、女性の成仏を説く経典として、中世以来女性に信仰されてきました。
自昌院による日蓮宗妙園寺への法華経の寄進は、自身が日蓮宗信者による者であるとともに、女性ならではの法華経信仰を持っていたからと
考えられます。
妙園寺は、安房小湊の本山誕生寺の末寺で、山号は蓮光山(れんこうざん)です。寛永四年(1627)に円成院(えんじょういん)日光が四谷千日谷に草庵を営んだのが始まりとされています。その後、日寛が当寺を再興し、宝永三年(1706)に現在の地に移転をしました。
本法華経は、保存状態が極めて良く、経函(きょうばこ)などを含めて自昌院が奉納した当時の姿を今に伝える貴重な文化財です。
渋谷区教育委員会
穏原小学校旧跡
神宮前三丁目8番
この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、隠田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
この間、大正十一年には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同二十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
渋谷区教育委員会
この説明看板かつても読んでいるのですが、今更ながら気づいたことがあります。字名だと思っていた穏田や原宿は村でした。穏田村は江戸時代、武蔵国豊嶋郡穏田村で上目黒村の荏原郡とは異なる郡です。Wikipediaから引用してみると江戸時代 - 武蔵国豊嶋郡穏田村(幕藩体制下においては武州〈天領〉伊賀者給地穏田村)/朱引内の一地域。と伊賀者に与えられた土地で江戸御府内です。江戸時代以前、律令制では江戸国はなく、武蔵国の中の江戸氏の領地で、徳川家康の江戸入府以降地図に朱色の線をひき朱引内と朱引外に分けられました。江戸というのは武蔵国内に定められたコロンビア特別区のようなものでしょうか。
センリョウ
ロータス
ボーネルンド
妙圓寺で給水休憩後北西に向かい、原宿警察署近くから明治通りを歩き、千駄ヶ谷小学校交差点を左折し、原宿駅側部乗降場 (宮廷ホーム)を横目で見ながら人ごみの原宿駅を何とか通過し、代々木公園原宿門まで戻ってきました。
ストレッチ後解散。午後の原宿は訪れるもんじゃないと改めて思いましたが、原宿本来の賑わいを見たという点でちょっとだけ価値があったウォーキングになったでしょうか。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
すこやか歩こう会では8月8日のコースとして設定し雨で流れ、9月18日の再設定も雨で流れました。三度目の正直となりましたが、11月から4月は午後の活動となっていることを失念していました。日曜日の午後、原宿の活気を知るにはよい機会となりましたが人が多くウォーキングには不向きでした。
代々木体育館
NHK杯フィギュアスケートのエキシビションが行われていました。
五輪橋
竹下通り
一本北の道
五輪橋を渡ると原宿駅から表参道方面へ向かう人の波で身動きが取れないほどです。混雑を避け竹下通りの一本北の道で東郷神社へ向かいます。会員には「希望者は竹下通りを歩いてもいいですよ」と言ってあったのですが、だれもこの混雑の中を突き進む勇気はなかったようです。
東郷神社
東郷記念館
祈念旗
竹下通りの混雑と比べると東郷神社は落ち着いたもので、七五三参りの家族が何組かいる程度です。東郷記念館は改装中のようでお庭にも入ることが出来ません。「Z旗」、国際信号旗のZ旗には「勝利」の意味はないのですが、東郷平八郎がこの旗を特別なものにしたとのこと。
スニーカーショップ
表参道
キャットストリートのたこ焼き
ティファニー
竹下通りを抜けて明治通りを横断するスニーカーショップがたくさんある道は竹下通りなのかな?裏原宿の入口というイメージですが、私自身裏原宿が分かっていないかもしれません。歩道橋で表参道を横断するとキャットストリート。ティファニーの猫が分からなかったけど、キャットストリートにちなんだデザインでしょうか。ブラタモリのパイロット版ではこのたこ焼き屋さんでたこ焼き買って久保田アナと二人で食べていたと記憶しています。「ティファニーでたこ焼きを」なんてパロディーを考えていたらふと「下落合焼とりムービー」を思い浮かべネットで検索。めずらしく小森のおばちゃまが酷評したというこの映画をちょっと見てみたい気になりました。時間の無駄か?
穏田神社拝殿
河野タカ
神輿
河野タカさんは明治時代の教育者で神社の氏子とのこと。末社の稲荷神社を再建に携わったということでここにいらっしゃるのかな。穏田を調べているといろいろ興味深い記述が見つかり、「穏田マンション」は岸田総理と関連がある。古くからの住人に聞いてみようかな。
神宮前社宅
好立地にある団地は都営住宅かと思いましたが公務員住宅のようです。外壁塗装したのか大規模修繕したのか奇麗になりました。同じ一角に「大山柏邸跡」があるので、大山巌公爵の邸宅の跡地かもしれません。
表参道のケヤキ
表参道のライトアップは一時行っていなかったと思うのですが、今年はライトアップを行うようで、電球がついています。たぶんLEDだと思うので、電球と言ってよいのかどうか。ケヤキは日本では一般的な木ですが、欧米ではそうでもないようです。Wikipediaから引用してみます。
分布
朝鮮半島、中国、台湾と日本に分布し、日本では本州、四国、九州に分布する。暖地では丘陵部から山地、寒冷地では平地まで自生する。
自然分布の他に、人の手によって街路や公園、人家のまわりにも植えられたものもよく見られる。
ケヤキを英語で“zelkova”と言いますが、この単語は英語圏に人にもなじみがないようで通じません。“a kind of elm”と言うと分かってもらえます。“elm”は楡の木です。楡もWikipediaから引用してみましょう。
象徴
ヨーロッパでは楡と葡萄は良縁の象徴とされる。この風習は元々はイタリア由来とされ、以下のような話がある。古代ローマ時代からイタリアではブドウを仕立てる支柱としてニレを使うために、ブドウ畑でニレも一緒に栽培していた。成長したニレは樹高3m程度のところで幹を切断する。ニレは萌芽を出すのでこれを横方向に仕立ててぶどうの蔓を絡ませてやるのだという。古代ローマの詩人オウィディウス(Ovidius、紀元前43-紀元前26年)はこれを見ていたく感動し、ulmus amat vitem, vitis non deserit ulmum(意訳:楡はブドウを愛している。ブドウも傷ついた楡を見捨てない)という詩を読んだ。
この話はローマ神話の神で恋仲だった季節の神ウェルトゥムヌスと果実の神ポーモーナの話としても好まれ、ルネサンス時代には絵画の題材としてもよく描かれた。
他にも北欧神話に登場する人類最初の男女アスクとエムブラのうちのエムブラ(女)が最高神オーディンに息を吹きかけられたニレから生まれたとされる。ギリシア神話では詩人で竪琴の名手だったオルペウスが妻の死を悼みニレの木の下で泣いたとされ、悲しみの象徴とされることもある。
楡の木はヨーロッパでおなじみのようですね。
まい泉青山本店
今年のお鷹狩りのコースだった都営青山北町アパートにはもともと風呂がついていなかったのでみんな銭湯に通っており、その銭湯の跡がとんかつ屋になったと聞いていました。「まい泉=銭湯を居抜きで利用」との印象が強かったのですがちょっと違っていたようです。少し長くなりますがまい泉のサイトから引用します。
【コラム】まい泉青山本店レストラン「西洋館」の工事中に、驚きの遺跡発掘?!
まい泉青山本店レストランは1978(昭和53)年に開業し、1983(昭和58)年には隣接していた銭湯「神宮湯」の廃業にともない、その建物を譲り受け、「西洋館」という名のダイニングルームを増設して営業してきました。この「西洋館」はお客様から『旧き良き昭和の日本建築に懐かしさを感じる』『天井が高くて、ゆったりした気分でお食事ができる』など、国内外のお客様から長らくご愛顧をいただいてまいりました。
今年の2月より青山本店レストランの改修工事をおこなっていますが、「西洋館」の工事中、思いがけずかつての「神宮湯」の名残りが見つかりました。そこで、銭湯文化研究の第一人者で、かつての「神宮湯」をご存知の社団法人 日本銭湯文化協会理事 町田 忍様に現場をみていただき、おはなしを伺いました。
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さて以下が神宮湯銭湯時代のわかったことです。
1982(昭和57)年ころまで営業。創業は不明。典型的な東京型銭湯の代表格の様式です。特徴は宮造り型。脱衣場天井は格子状の社寺風の最上級の「折り上げ格天井」の吹き抜け(脱衣場が吹き抜けは東京型銭湯の特徴)であった。
庭は富士山から運んだ溶岩と高級な大きな庭石、創業時は錦鯉がいたと思われます。建築年代はその外観の様式からして戦後から1965(昭和40)年ころまでと思われます。
■浴室・・ペンキ絵
湯船が壁際にある東京型銭湯・その上にペンキ絵背景画があります。絵の下には近所のおみせの広告看板(業界用語でコマ)がはいるスペースが残っています。これはかつて銭湯専門の広告代理店が地域ごとにあり、そこに所属する絵師が描きました。神宮湯場所からして「美虹社」(現在消滅)という広告代理店が担当しており、絵はおそらく年代からしてそこに所属していた「木村進」さん(故人)が描いた絵と推測されます。当時広告が年に一回更新時ごとに集金、その代金で年一回無料で新しい絵にしていたのです。したがって銭湯は費用を負担することなく毎年新しい絵になりました。
このようにペンキ絵は本来1年という短い期間しか残されていないわけで、そのことからするとまい泉さんのこの絵は40年以上前の大変貴重な絵で銭湯文化遺産といっても過言でない絵と思います。
■タイル絵
左浴室ペンキ絵下に小さいタイル絵があります。鯉の尻尾の部分です。これは九谷焼です。この部分に鯉のタイル絵があるのは昭和40年代までの東京の銭湯に多くみられました。なぜならばこれらタイル絵は全ては金沢のタイル店『鈴木建材店」のご主人が戦前から見本帳を持って全国をセールスした結果でした。とくに東京の銭湯のオーナーの約8割が北陸(石川・新潟・富山)出身でしたので、石川県の金沢などで生産されていた九谷焼はその高級感と故郷に近いこともあり盛んに利用されました。またこの地域は鯉の生産地としても有名でした。
神宮湯のタイル絵を描いたのは金沢にいた石田庄太郎さん(画名「章仙」)は大正3年生まれ(故人)。都内の多くの銭湯のタイル絵を手がけました。神宮湯に残ってるのはわずか4枚ほどですが。同じタイル絵の完全版は現在、渋谷のもと同潤会文化アパートの敷地にある公園に記念で残されています。
以前、章仙さんにインタビューした際「鯉の絵が多いのは、お客コイコイと登竜門の縁起からで、12匹描くことが多かったのは12ヶ月お客コイコイからです」との話でした。
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
いかがでしたか?文中に出てくる、ペンキ絵やタイル絵はお客様にはご覧頂けませんが、この「神宮湯」の名残や思い出は大事に次世代に引き継いでいきたい、という思いから、ご紹介させていただきました。「西洋館」は7月末には改修工事を終え、リニューアルオープンをさせていただきます。皆様のお越しを心よりお待ち申し上げております。
原宿発祥の地
妙圓寺境内にあります。
自昌院自筆法華経 (じしょういんじひつほけきょう)八巻 附函
神宮前三丁目8番9号 日蓮宗 蓮光山 妙圓寺
区指定有形文化財 平成二十八年十一月二十一日
妙園寺が所蔵する法華経八巻は、広島藩二代藩主浅野光晟(みつあきら)の正室である自昌院(満姫(まんひめ))により、万治二年(1659)二月三日に写経されました。
巻子本(かんすぼん)に仕立てられたこれらの経典は、見返しに箔地に日輪と月輪及び文殊と普賢菩薩が描かれ、鳥の子紙を使用した写経料紙には、金泥(きんでい)による優美な装飾が施されています。
自昌院は、加賀藩三代藩主前田利常(としつね)の娘として、元和五年(1619)十二月十五日に金沢で誕生しました。母親は、徳川秀忠の娘珠姫(たまひめ)です。その関係からか、満姫は徳川家光の養女となって、寛永十二年(1635)九月に浅野光最に嫁ぎました。満姫は、万治元年(1658)十月十二日に実父利常の死去をうけて剃髪したようで、自昌院と号しました。自昌院は熱心な日蓮宗信者で、維司ヶ谷の鬼子母神堂や広島の菩提寺となる自昌山國前寺(こくぜんじ)を建立しています。
法華経は、自昌院の写経にみられるように、日蓮宗の根本経典であるばかりでなく、女性の成仏を説く経典として、中世以来女性に信仰されてきました。
自昌院による日蓮宗妙園寺への法華経の寄進は、自身が日蓮宗信者による者であるとともに、女性ならではの法華経信仰を持っていたからと
考えられます。
妙園寺は、安房小湊の本山誕生寺の末寺で、山号は蓮光山(れんこうざん)です。寛永四年(1627)に円成院(えんじょういん)日光が四谷千日谷に草庵を営んだのが始まりとされています。その後、日寛が当寺を再興し、宝永三年(1706)に現在の地に移転をしました。
本法華経は、保存状態が極めて良く、経函(きょうばこ)などを含めて自昌院が奉納した当時の姿を今に伝える貴重な文化財です。
渋谷区教育委員会
穏原小学校旧跡
神宮前三丁目8番
この道路の向かい側に、かって穏原小学校がありました。
この学校は、妙円寺などの寺子屋の児童を収容し、隠田・原宿両村の連合公立小学校として、明治十四年(1881)に、当時の原宿七十番地に開校したもので、当初の児童数は二十四名にすぎませんでした。しかし、付近の住宅化が進むにつれ児童数も増加したため、同二十一年にこの場所に校舎を新築し、移転してきました。
その後、校地が再び狭くなり、同三十三年に原宿百七十番地に移転、さらにまた、現在原宿中学校がある場所に移りました。
この間、大正十一年には分教場(現在の神宮前小学校)を設け、めざましい発展を遂げたのですが、昭和二十年五月の空襲によって校舎を焼失し、児童数も激減したため、在籍児童を神宮前小学校に移し、同二十一年三月、六十五年にわたる歴史の幕を閉じましたが、この間はぐくまれた建学の精神は、多くの卒業生によって受けつがれております。
渋谷区教育委員会
この説明看板かつても読んでいるのですが、今更ながら気づいたことがあります。字名だと思っていた穏田や原宿は村でした。穏田村は江戸時代、武蔵国豊嶋郡穏田村で上目黒村の荏原郡とは異なる郡です。Wikipediaから引用してみると江戸時代 - 武蔵国豊嶋郡穏田村(幕藩体制下においては武州〈天領〉伊賀者給地穏田村)/朱引内の一地域。と伊賀者に与えられた土地で江戸御府内です。江戸時代以前、律令制では江戸国はなく、武蔵国の中の江戸氏の領地で、徳川家康の江戸入府以降地図に朱色の線をひき朱引内と朱引外に分けられました。江戸というのは武蔵国内に定められたコロンビア特別区のようなものでしょうか。
センリョウ
ロータス
ボーネルンド
妙圓寺で給水休憩後北西に向かい、原宿警察署近くから明治通りを歩き、千駄ヶ谷小学校交差点を左折し、原宿駅側部乗降場 (宮廷ホーム)を横目で見ながら人ごみの原宿駅を何とか通過し、代々木公園原宿門まで戻ってきました。
ストレッチ後解散。午後の原宿は訪れるもんじゃないと改めて思いましたが、原宿本来の賑わいを見たという点でちょっとだけ価値があったウォーキングになったでしょうか。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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