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🍁読書の秋🍁 ─── 【ネタばれ注意❕】小松左京・著 『果しなき流れの果に』(1965年刊)

2020年10月09日 | 日記

今はSF洋画に特化されてる自分の興味だが、若い時分は小説も和洋、読み親しんでいた。わたしのハードSF小説との出会いは中学1年の冬、小松左京の著になる『日本沈没』だった。ラジオドラマで耳にして(当時の大ベストセラーだった)カッパノベルズの上下2巻を購入。これで小松左京の長編ハード物に魅了され、中高生時代に氏の“過去の名作”の何冊かを読み進める。

この『果しなき流れの果に』も、その頃に“初消化”して感動した一冊だった。

世の実用漢字に疎(うと)い中学生だったから、「この題字」が並ぶ背表紙を書店の文庫本コーナーで初見した時点では何にも❕ 違和感を覚えず(刷られてあるがままを)受け容れたが、齢も還暦の今なら…そもそもなぜ『果しなき流れの果に』じゃないんだろう❔ とは訝(いぶか)ったかもしれない。

ことほど左様に、難しい漢字や書き馴染まぬ漢字の真意をまったくの推量で斜め読みしてたローティーンの頃に1回きり読んだなり、本棚に埋めてしまい五十余年……不惑も越えたなら「いつの日か」1度は読み返したい❕とは念願してたのだ。それを先般やっと❕ kindle本で再読することができた。

本作は今でも多くのSF作品が採る手法のように、当時の「近未来=現時点」視点で描かれてる。この作品は1965年に書かれたので、作品の“現時点”は1985年に設定されてた。ストーリーの幹をなす男女(野々村と佐世子)の死没が、2018年。今や、それすら過去になってしまった。

とは言え、さすが左京ワールド。半世紀後に読み返しても、古臭いレトロ感など覚えない。ところが日本語版ウィキペディアの解説はずいぶん本作のスケール感を削いだ内容で、まるきりピンと来ない。そのくせ「10億年の時空を舞台とする壮大なスケール」とも記述してる。

本作に出てくる和泉砂岩層が堆積したのは7千万年前、未来は45世紀(=たかだか2400年先)までだから、1億年にも遠く及ばない範囲のハズだが…❔❔

内容的には、人類の時間移動を管理する“超越者”=超人類と、スーパーパワーの片鱗みせる「少数のネオ人類」が結集した“叛逆”集団との、時空を超えた死闘。それが、その争いの渦に巻き込まれた日本の学識男女の「翻弄される愛」に絡め、淡々と語られてく。

テイストはさながら、2008年から13年にかけ5シーズンで(完結まで)放映された米国SFミステリードラマ『FRINGE/フリンジのようだ。特にドラマの後半、オブザーバーと呼ばれる高次の種族の“侵略と支配”に人類=主人公カップルらが(パラレルワールドを行き交い)反抗を挑む下りは。


細部においても、本作の先見性に冴えた⚡場面は多い。人の意識が肉体を捨て(進化とともに)次々と統合されてく描写は邦アニメ『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』終盤のようだし、その続編『イノセンス』におけるバーチャル作戦会議のシーンを髣髴(ほうふつ)とさせるような記述も、本作の中にすでに登場してるんである。


また、今回はkindle版で読んだからか、それとも怒涛の漢字混入にも抵抗ない齢になったせいか、中学のとき感じたような“長編”感は無く、すらすらと3日ほどで完読できた。前に読んだときは「実は、松浦と野々村が父子」という終盤のオチ描写が即解できず、単にアイの視点から比喩的に「父子」と表現したのかと思ってた💧 が、きっちり読解できた今回は「日本の過去に跳んだハンス&エルマから野々村“未亡人”に渡される赤ん坊」のプロットを読み落とさずに済んだ。

ただ、やはり良書は(人生のうちに)何度かは読み直してみるものだ。前より明快に消化できた箇所も多いなか、逆に「あらたな疑問」に気づくことも出来る。

たとえば最終盤───記憶を失うも、おぼろげな親近感で故郷に吸い寄せられる野々村。

野々村の肉体だけは還った。じゃ、彼と「同一人格に統合されてた」アイや松浦はどうなったんだ❔ スイスの高山に野々村の肉体が放り出された時点で、アイの意識、かつての松浦の肉体は「今度こそ本当に消去」されてしまったのか❔ なぜアイや松浦が野々村の「犠牲」に❔ その選別の根拠は❔ 単なる運命とか、偶然で❔
=了=

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