すずりんの日記

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~8

2006年09月26日 | 小説「雪の降る光景」
 ハーシェルの横顔が、後悔の表情から、一度見たあの“今にも泣き出しそうな”顔つきに、みるみる変わっていった。私はまるで恋人にでも話しかけるように、彼の耳元に優しく囁いた。
「俺は、前から考えていたんだ。学校を出たら、ナチスの高官か医者になって、“体内からどのくらい血液を失うと人が死ぬか”、生体実験をしてみたい、ってな。ちょうど良かった。おまえの体でやってみるか。マウスなんかより正確なデータが出るだろうからな。」
「ばっ、ばかな。そんなこと、・・・本当にできると思ってるのか。」
そう返事を返すことが、彼にとって精一杯の抵抗であった。
「・・・できないと、思っているのか?」
そう言いながら、私は彼のポケットにいつも入っているナイフを取り出した。そう、あの時のナイフだ。
「このナイフは、一度、人の血を吸っている。おまえのような腰抜けの手には負えないよ。ケガするだけだ。」
彼の顔の前を、ナイフの刃先に反射した光がちらちらと動いた。
「こいつは、俺の血だけでは物足りないらしい。・・・ハーシェル、恨むんなら俺でなく、血の味を覚えたナイフをいつまでも手元に置いていた自分を恨めよ。」
 しかし、あの時から10年以上の月日が経った今、改めて思い返してみて言い切れるのは、私はこの日、彼らと出くわしてからこの瞬間まで一瞬たりとも、彼を本当に殺してしまおうと思ってはいなかった。そこまでする必要が無かったから、・・・というよりも、そこまでする価値の無い奴を相手にしていたからだ。つまり彼は、私のハッタリを以ってすれば、簡単に落とせる人間だったのである。当時は、彼も私もまだ子供だった。本当に彼を殺そうという考えが、子供のケンカには、端から必要無いものだったということもあったのだろう。しかしだ、今、右左の分別も分かる年になったゲシュタポが、私に何かしらの理由で戦いを仕掛けてきた場合、どちらが勝つか、つまり別の言い方をすれば、どちらが死ぬか、ということを真っ先に念頭に置かなければならないだろう。

 「頚動脈血管が、外傷により一部損傷した場合、人が死に至るまで、どの程度の時間を要するか。おれが知りたいのは、そういうことだ。なんでも、今あるデータだと、10秒ほどらしいがな。」
もちろん、これもデタラメである。
「じゅっ、10秒っ・・・。」
「そうだ。その10秒の間に、眠るように楽に死ねるんだ。」
「やっ、やめろっ。やめてくれっ。俺が悪かった。お願いだ!助けてくれ!」
「手遅れだ。」
私は静かにそういうと、彼の返事を待たずに行動に移った。冷たいナイフの先端を、彼の首筋に強く擦り付けた。そして素早く、そのナイフを彼の首から引き離した。
「ほーら、どんどん血が出てきたぞ。首が熱くなってきただろう。」
私は、血が噴き出している右手の傷口を彼の首筋に当て、その血が彼の首から溢れ出ているかのように暗示をかけた。
「おまえは、あと10秒の命だ。」
 彼は、顔面蒼白になって今にも気を失いそうだった。
「・・・9、8、7、・・・。」
首を絞める私の腕にしがみついていた彼の指が、ゆっくりと離れていく。
「・・・6、5、4、3、・・・。」
彼の体が、だんだん冷たくなってきた。
「・・・2、1!」
ガクン!と、急に彼の膝がバランスを崩した。彼は完全に気を失い、だらりと私に寄り掛かった。
「ハーシェル!」
「死ぬんじゃないぞ!!」
彼の仲間が、今まで何も手を出せなかった自分の勇気の無さを棚に上げて、今になって急に声を発した。
「今ごろ叫んでも遅いんだよ。」
ハーシェルの体を静かに横に倒し、私は、気を失っているだけの彼に向かって、胸で十字を切った。
「ハーシェル!」
私が早まったことをするはずがないと信じていた私の友人たちまでもが、私の手にしているナイフが血だらけなのを見て、心配そうに彼の名前を呼んでいた。

 ハーシェルが生きていることを彼らが知ったのは、私たちが既にその場から立ち去ってからのことだった。その後ハーシェルは、またもや激怒し、ナチスの教官に一切を打ち明けたのだそうだ。自分がどれほどまでに私によって自尊心を傷つけられたかを切々と訴え、私に罰を与えてください、と頼んだらしい。その結果、私は、“寮の食事一回抜き”の罰を食らったが、逆にその冷淡さを買われて、卒業を待たずに、着実に総統の部下としての階段を登っていた、将来のナチス党党首のボルマンと一緒に、ヘス副総統の部下となることができたのだった。彼は、というと、その、気の弱さを克服するようにと、注意を受け、かなりの間、ナチス失格の汚名を着せられていたという。
 彼とはその後、会うことは無かった。学校を卒業してからの数年の間、私たちは、ヘス副総統、ヒムラー長官という、総統の片腕とも言われる2人の幹部の配下に就き、ナチスとしての教育を徹底的に受けてきた。そのおかげで私は、自分個人の感情で人を本気で憎むということを忘れ去ることができたのである。つまり、彼によって、新たに私の感情がかき乱されるようなことが無い限り、私にとって彼は、「二度も私にケガを負わせた、憎き級友」ではなく、「ナチスを守るために忠実に仕事をこなす、ドイツが誇るべきゲシュタポ」なのだ。

 ハーシェルが死んだ時、自分はもしかしたら、涙を流すかもしれない。―――ふと私はそう思った。何の根拠も無く、である。彼の中に、何か因縁じみたものを感じているのかもしれない。私にとっては、彼の存在が、「人生の転機」なのだという気もする。もし、本当にそうであれば、彼が死んだ時、その時に私の人生も、ある意味で終わりに向かうと言える。私と彼の生命は、そうやって、今までずっと何かで因縁づけられた生と死を繰り返してきたのだろうか。そして、これからも。・・・私も彼も、何とちっぽけな、何と儚い、何と無力な存在なのだろう。・・・まるで、降っては融け、融けては降り積む雪の結晶のような。・・・そう。全ては真実なのだ。あの、夢に出てきた女の子が私であるということも、その夢から覚めた時、私が涙を流していたということも。そして、たぶん、・・・ハーシェルが死ぬ時、私は涙を流すかもしれないということも。


 「私の話を聞いているのかね?」
急に私は、ヒトラー総統を目の前にしている一人のナチスとしての自分を取り戻した。
「私は何も、暇を持て余して今日の式典の様子をいちいち君たちに話してやっている訳ではない。私の側近だったヘスに代わって、君たちに早く私の片腕となって欲しい。そのために、こうやってわざわざ時間を・・・。」
「総統、失礼いたしました。今日は少し、体の調子が良くないもので・・・。」
「そんな言い訳が通じると思っているのか!だいたい、君は最近少し・・・。」
「総統、次の御予定が入っておりますが。」
・・・助かった。ボルマンが、総統に気づかれないように、私に小さく目配せをした。彼も私も、総統の癇癪には、ほとほと閉口していたのだ。総統は、まるで何事も無かったかのように、次の予定の場所に向かう準備のために、自分でドアを開け、足早に出て行った。
「雪か・・・。」
私が、肩を落としてこう言うと、ホッとして総統の後を追おうとしていたボルマンが、しばし、動きを止めてこう言った。
「雪?なんだ?次の実験にでも使う気なのか?」
私は、また、ブランデーが欲しくなった。しかし、グラスどころか、手には何も持っていなかった。私は、彼は悪気があって言ったのではないのだ、と思い直した。
「まぁね。」
私は、自分の心を隠すかのように、ボルマンと一緒にこの部屋を出た。


(第1章Ⅱへつづく)

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