自分が成長するには…とか書いてしまったんですが、もうそういうのしちめんどくさいので、本音を言わせていただきます。
何故、僕はこんな記事を書くのか。
それは、ある人に
「おっちーバランス悪いんじゃない?」
今から考えるとそういう意味のお言葉を、もらったからです。
それを聞いた特はショックで、また精神的にバランスを崩しそうになりました。
こういうことがあると、あぁ、まだ僕はとうごうしっちょしょうなんだなあ、と思いますが。
僕ははっきり言って完璧主義者です。
なんでも自分で納得いく結果を出さないと気がすみません。
だから他人に自分をちょっとでも悪く言われた日には、それが気になって他のことが手につかない…とまではいきませんが、ずっとそれが頭の隅にある、という状態になってしまいます。
でもやっぱり、他人から見た自分もやっぱり自分なんですよ。
どこか真理があるのだと思います。
たとえそれが自分にとって腹の立つような内容だったとしても、甘んじて受け止めなければならないのだと思います。
そういうところで、やっと出てきました、
「自分が成長するには」
それは、ひとの言葉をすべて受け止め、そこに違った方向から見なければ見えないかもしれない、真理を見い出すことです。
一見どうでもいい言葉かもしれない、もしくは、受け入れたら自分が壊れてしまうような言葉かもしれない、でも、それらをていねいに受け止めるのです。
そして、自分の糧にするのです。
人生で目にするもの、耳に入るもの、感覚で受けるものすべては、意味の…意義のあるものだと思います。
五感を、いや、六感すべてを張り巡らせましょう。疲れない程度に。
そうすれば、また違った景色が見えて、気分いいですよ。
なんかエラそうでした(照笑)、すみません。
ではでは。
何故、僕はこんな記事を書くのか。
それは、ある人に
「おっちーバランス悪いんじゃない?」
今から考えるとそういう意味のお言葉を、もらったからです。
それを聞いた特はショックで、また精神的にバランスを崩しそうになりました。
こういうことがあると、あぁ、まだ僕はとうごうしっちょしょうなんだなあ、と思いますが。
僕ははっきり言って完璧主義者です。
なんでも自分で納得いく結果を出さないと気がすみません。
だから他人に自分をちょっとでも悪く言われた日には、それが気になって他のことが手につかない…とまではいきませんが、ずっとそれが頭の隅にある、という状態になってしまいます。
でもやっぱり、他人から見た自分もやっぱり自分なんですよ。
どこか真理があるのだと思います。
たとえそれが自分にとって腹の立つような内容だったとしても、甘んじて受け止めなければならないのだと思います。
そういうところで、やっと出てきました、
「自分が成長するには」
それは、ひとの言葉をすべて受け止め、そこに違った方向から見なければ見えないかもしれない、真理を見い出すことです。
一見どうでもいい言葉かもしれない、もしくは、受け入れたら自分が壊れてしまうような言葉かもしれない、でも、それらをていねいに受け止めるのです。
そして、自分の糧にするのです。
人生で目にするもの、耳に入るもの、感覚で受けるものすべては、意味の…意義のあるものだと思います。
五感を、いや、六感すべてを張り巡らせましょう。疲れない程度に。
そうすれば、また違った景色が見えて、気分いいですよ。
なんかエラそうでした(照笑)、すみません。
ではでは。
預言者さまからのお言葉を受けて、辞表を自分から出すのは、とりあえず止めておきます。
軽いようですが考えた上での結論なんですよ。
でもなぎささんから言われたのが大きいというのは、事実なんですが。
中庸の心、、、心に留めておきます。しっかりと。
ありがとうございます。これからもよろしく…。
短い返答でごめんなさい。
ではでは。
敵は最高の友人。あなたの弱点を的確に標的にするからだ。
どうも、苦難の道を教えているようで。愛の道は昔から辛苦という同意語すらの歴史がある。それは同意を求めないので、皆から理解を得ることはできないからだ。
一つの視点は、鏡であるということ。あなたもdebbyさんも、そして私も、同じで、指摘するということはその事を、自分にも同じくあるということです。
愛の視点では、勝者も敗者もいない。大小もない。欠けたところもなく、全く対等に愛されているということです。
理念と感情という関係は面白い。感情の、単に表現することを、人は理念でもって覆い隠そうとする。それは感情というものが、野卑で粗末であると思って、その表出が恥であるかのようだ。
ここで行動とは、第一に許しである。許しを行い、許しを求める。なぜか。それは幻影を幻影として、真実を明かす唯一の方法だからだ。そして自由を獲得できるからだ。相手の言動に反応してがんじがらめになった心を広げるからだ。
皆怖れているのだ、何かしらのシステムに恭順でないと、自分が益々小さくなって無くなるのではないかと。それは全くエゴの問題であって、自分の大いなるいのちの息吹を隠している。
私はあなたには、石の上にも三年ということを、難儀を承知で、頑張ってほしい。いかにも逆境であるけれど、それを生き抜いてこそ、すばらしい体験になるのであって、もしそれを今止めれば、次の所も、あなたが変わっていないと同じ状況を引き付けるからだ。
要するに、辞表は止めましょう。解雇されるのは仕方がないけれど、若干の実際上のメリットもある。(雇用保険がすぐにおりるからだ。自己都合なら3ヶ月待たなければいけない。)
色々言いましたが、私の責任でもあるので、心からの陳謝をし、懺悔にします。そして学びになるよう、これからいつも心に留めておきます。
あなたの愛に祝福を。喜び、辛苦を共にして。
それからもうひとつ、中庸の心が愛をフルに発揮させることができる。
またちょこちょこコメントくださいね。
ぎんなんさんのコメントは僕にとって勉強になるし、違う視点をもらえるし、刺激になるしで、いいことずくめなんですから。
そりゃすこしは傷ついたりはしましたけど。
でもそれは一時のこと。ぎんなんさぁんはちゃんと公平な目で見てくれていて、きちんと自分の意見をおっしゃってくれていると確信しています。…なんだか照れますね。
すみません。
これからボーっとします。小一時間。
ALWAYS三丁目の夕日の(一作目の方)DVDを借りたので、それを観ながら。
こんなことぎんなんさあんがいなかったらやってませんよ。
今頃文章塾のコメント入れなきゃっ!ってまた頑張ってたと思います。
>何も無いことを祈っています。
ハイ、周りの方々の意見を聞きまわります。
こんな世の中ですから、何もないで平穏に過ごすというのもムシがいいかなって思ってるんですよ。
大丈夫です。うまくやります。
ありがとうございます。
でもね、…だから、躁じゃないんですよう(笑)
正直、何が起こったのか把握しかねています。
ここ数日のおっちーさんの書き込みは、彼が「躁」であるということの証明にはなり得ても、彼の人格を貶めることにはなりえないと、個人的には思っています。
debbyさんは「躁」についてご存知ですから、その辺のことも良くわかっていらっしゃるのではないかと思います。
私はとにかく、おっちーさんに自分の状態について疑問を持って欲しかったので、ちょっときつい言い方もしました。結果的にそのことがおっちーさんの気分を害し、ひいてはdebbyさんの気分を害する結果になったのであれば、心よりお詫びいたします。
申し訳ありませんでした。
おっちーさん、
あの……早まらないでくださいね。
とにかく、周りの話を聞いてみてください。何も無いことを祈っています。
ここを見ている皆様、
お騒がせして大変申し訳ありませんでした。私は退散します。
頑張ります。
ありがとうございました。
お元気で、さようなら。
いざこざは、どちらかが謝らないと終結しませんので・・・、一旦、申し上げておきます。
いくつかの言葉、申し訳ございませんでした。
それから、課長にご報告されるのは一向に構いませんが、君の部署の課長は人事権を持っておりませんし、君の部署の課長と我々人事とではまず視点が違いますので、報告しても「あっ、そう」で終わりだと思います。仕事の場にプライベートを更に持ち込もうとしているわけですからね。事象の混乱であり、君の人格もさらに疑われます。
私は社内障害者の掌握が仕事の一部なので、今回の出来事は人事課長に携帯ですべて報告済みです。その指示に従って、今この文章を書いています。
私は、もうこのブログは見ませんので、安心して下さい。
それでは、君に将来があることを祈りつつ、
失礼致します。お元気で。
ありがとうございます、
すみません。
たぶんdebbyさんは、ご本人に断りもなく、この記事やコメントを書いてしまったことを不誠実だとおっしゃっているのではないかと思います。
なんやかや悪口や、debbyさんもおっしゃっている通り、差別的な発言が見受けられますしね。
すみません、もうdebbyさんはこのブログなんか興味ないかなーと思ったんですよう。
気を抜いてしまいました。軽はずみでした。
ごめんなさい。
人と人との距離って大切ですね。
反省します。
これから社会人二年目、大変ですね。
うまくやっていきたいです。
ではでは。
じゃあ僕は会社を辞めたほうがいいのかな。
たぶんこの問題は、僕が仕事とプライベートをきちんと区別しなかったから起きてしまったものだと思います。
これからは会社にプライベートを持ち込むことは控えますね。
すみませんでした。
このブログは僕のプライベートの場です。
なのでdebbyさん、これからは出来たらこのブログは読まれないよう。
お願いいたします。
どっちにしろ、この問題は、会社の方の仕事的な問題も絡んでしまったので、課長に報告します。
はっきり、
「あなたは要らない」
と言われたといいます。
誰から言われたということは言いません、たぶん。
それからすでに書いたことですが、僕が躁であるかそうではないかということについては、自分では判断しかねます。
なのでいろんな人にこのことも、相談します。
すみませんでした。
不快な思いをさせてしまったこと、お詫びいたします。
ではでは。
言ったり書いたりするだけとは、思いもよらない事です。これが実践でなくて何でしょう。今の契約社会で実働しているのは、何でしょうか。
謙虚な姿勢に裏打ちされた衷心からの行動が大事なのは分かりますが、日常業務において、それはどういうことなのでしょうか。
いまのままでは、よくあるトラブルで使う言葉で、その正当性を逆に疑われる可能性があると思うのですが。
debbyさま、私はあなたを知りませんが、私は心から誠実に疑問を呈しました。申し訳ないですが、あなたの返答を期待したいのですが。
私はただの夢人なので、無視していただいても、勿論構いません。
もう君は要らない。
自覚できないのが真の躁であるのは知ってのとおりです。
鬱の人間の判断だからとかわすのは簡単だけれど、それは自身のおっしゃっている立派な「区別」そのものでしょう。
語るのは、簡単です。言ったり書いたりするだけなら私にもできます。
大事なのは、謙虚な姿勢に裏打ちされた衷心からの行動ですし、
それがいまのあなたには決定的に欠落しています。
ありがとうございます。
いつも愛と光を、胸に刻みます。
愛という気持ちは、無限ですね。
光は、オーラは無限の表現ですね。
愛という想像力も、無限だと思います。
いつも愛をもってのぞみたいと思います。
何事に対しても。つらいことにも、厳しいことにも。愛を忘れずに。
でも人間ですから有限であることも忘れないようにしますね。
ではでは。
あなたに推薦した上記、今日、第二の約束「なにごとも個人的に受け取らないこと」を読み返しました。
真実という果実は共有の幻想かもしれない。しかし、この夢のいいところは、見えることです。それはあなたが問題と思うところは、鏡として人の言葉として見せてくれるという意味で。だから嘘と本当はないかもしれない。そして何も補うようなことは絶対にない。今の人間的な制限して、不足していることが、本当は完璧に人間であることですから。定義として、完璧とは何かということもありますが、すべての範囲において適切であるということでしょうか。もしそうなら、それは神です。人間は神の子であって、本来は神でありますが、子であるということの意味を考えるとどうでしょう。それは被造物としての輝きをいうのでしょう。ということは、見えるという意味ですでに制限をしているのですから、その肉体なり、それを身に纏った精神が、その生きるということを感じることこそ、要するに人生の苦楽を芯まで感じることこそ、有限なる者の無限への捧げ物かもしれない。しかし、本来神なることとは、無限の創造の楽しみと慈しみにあるとすれば、本来的には苦しみとか不足とかは無い訳です。これはどういうことでしょう。生死とかは、実は幻想の一番でないかということです。そうです、死ぬというのは、幻想なんです。そういう人間の限界を設けて、それはどういうものかという体験ということで、無限の創造を楽しむということであるかもしれない。そのぐらい無限というものは有限を超越しながら、有限にしか表現することができないのでしょう。
もし考えるのなら、愛をいつも心に置けばよいと判ります。だって、愛こそ無限で無条件の唯一の神の贈り物なのですから。そして表現は光でしょう。これからはいつも愛と光を、自分に、人に、世界に、宇宙に振りかけましょう。あなたが根源としてその神の子として、そして神として。それこそ「結び」という物語は完結するのだと思います。
って言っても説得力ないかもしれませんが、気を抜いてる時は抜いてるし、力を抜いている時は抜いています。
このブログは僕の活動の場であるので、基本的にテンションは高いです。文章塾もそう。
それから人と会うときも自分は気を遣いぃですから、ちょっとテンションは上がります。もちろん相手によりますが。
でも最近は基本的に忙しいけど、映画とか行く時間が取れないだけで、水泳行ったり、今日も行ったけど馴染みのたこ焼き屋でくつろいだり、太極拳行ったりで、マイペースでリラックスする時はしていますよ。
ぎんなんさんの想像されてるような躁の状態では決してないので、出来たら安心して欲しいです。
なにしろその僕を「躁」だと言ったのも、今はほとんど治っていますが、半年弱前までは、会社を休まれていた鬱の患者さんですし。
病人(?)は、敏感過ぎるくらいに感じ取るのです。
でも僕は、どういくら頑張っても、躁ではないと思うけどなあ。
だから言葉だけじゃどうしょうもないんですよ。
今度会いましょうね。
会って判断してみてください。大丈夫ですから。
二週間に一回お医者にも通っています。診察も受けているし、もらったお薬も飲んでいます。
普通の暮らしをしていて大丈夫だと言われています。
これ以上何をどう変えろと?
そんなに無理してないですよ。
ダメな時は、限界が来る前に倒れます。ギブします。
活動できる範囲で活動するのは、至って普通なのでは?
でも今度いろんな人にこのことを相談してみますね。
心配になってきた。ぎんなんさんに言われて。
健常者のいろんな方々に客観的に僕を見てもらって、どこをどう直せば安全か、判断してもらいます。
ええそうしましょう。
そんなんで。
じゃあこれからパソコン教室。--;
…だから無理してないってばー!!( ̄□ ̄@
……おっちーさん、発病したときに今より年を取っていたとでも?(泣)
こういう思考になること自体が既に「躁」の症状ですね多分。
前言撤回!
おっちーさんにとって「躁」が続くこと自体のリスクも高いです。しかも、今回他の人から指摘されているわけですから、外から見てわかるくらい症状が出ていたのだと思います。
私は昔、知り合いに「躁気味なんじゃない?」って言ってしまったことがあります。もちろん言われた人は非常に傷ついていたし、私も言っていいものかどうかさんざん迷ったんです。
でも言っちゃった。
とあるイベントで顔を合わせたのですが、様子が明らかに普段とは違っていて、妙にはしゃぐ、一方的に喋る、攻撃的になる等の行動があったので、このままではその人の人間関係に影響するんじゃないかと思ったんです。その人が精神科にかかっていることも知っていたので、薬の副作用かなと思ったのもありました。
主治医に相談した方がいいのかもしれません。もしかすると薬で抑える必要があるかもしれませんし。
もし「躁」を薬で抑えたら、多分仕事の能率はがくっと落ちます。それは覚悟してくださいね。
> こういう時期は人生で何度かはあるのでは?
もちろん。ただ、そういう場合は「いついつまでに終わる」と何週間単位程度で期限を切れる状況でないと駄目じゃないかと思います。
「人生」と大きなくくりになってるようじゃ先は見えてないように思いますが、どうですか?
終わりが見えなくても、ひとまず自分で期限を切って期限がきたらちゃんと休んでいかないと、体が持ちません。
「今頑張らないと」という時期は確かにあります。でも、その頑張りが将来を潰してしまうものなら、本末転倒でしょう。
将来が無くてもいいなら、このままどうぞ。
応援はしませんよ。今のままなら。
なのでお二人のコメントは読めないまま、ぎんなんさぁんへの一回目のコメントは書かれました。
そういうわけで、ニアミスだったのよぅ。
ということです。
ま、どうでもいいことですが。
僕はこういう性格なんだなあ。
ご理解ください。
ではでは。( ̄ー ̄@
おっしょさんに会うのが楽しみ楽しみ。
てーことは来週の月曜日はおさかさんの番かな?
だらーり楽しみましょう。
ではでは。
というか、ぎんなんさんのアドバイスはとても僕を助けてくれていて、ぎんなんさぁんに「出来ないことは断りましょう」と言われてから、実際の場面で、仕事上で一回と、趣味の分野で一回、「これは無理」と断ったことがありました。
昔だったら何でも無理して引き受けて、いらん苦労をものすごく背負っていたと思われます。
これほんとです。ありがとうございます。助かってます。
でもおさかさんへの返信にも書いた通り、まだ力を抜けないんですよ。状況が許してくれない。
見えないストレスはなんやかや(当たり前ですが)ありますし、やらなきゃいけないことも多い、勉強もしなくちゃならない。社会人一年生ですからね、なにしろ。
半病人ですが、若者ですから、まだ、、、たぶん。。。
若さで乗り切ろーーーっ!!!
なんて思ってます。
こういう時期は人生で何度かはあるのでは?
だから今だけと思って頑張ろうと思っています。
応援よろしくお願いします。よろしければ。
またコメントください。っ!
ありがとうございました!
ではでは。
そうですよねえ。
みんなけっこう躁といえば躁な時はありますよねえ。
やっぱりそうだよなあ。
力の抜き方は、もう少しかな、もう少し身辺が整理されてきたら、出来るようになるかな。
だって社会に出てまだ一年も経ってなくて、母親は病気で、趣味に関しても、いつの間にかいろんなもの抱えてて、父親とも仲悪い(いいときもあるが)わけで、そんなに力抜く時ありませんよ。寝る時以外は。
たぶん寝てる時は夢も覚えてないくらいだから、ぐっすりと寝てるんだと思いますよ。深い眠りで。
だからなんとかなると思います。
時が解決してくれるさっ。
というわけで、それでは。
自分でも納得するまでやりきりたいし、ひとにも評価されたい。
実現は大変なんですが、それが目標です。
実際病気するまでは現実にそうだったし。
だからムリが出て病気になったんでしょうが。
でも同じ失敗は二度しないつもりです。
もう少し話を一般化すると、自分の感覚に入ってくるものが、自分にとって心地良ければいいのです。
これは預言者さまのおっしゃることと通ずるところがあるのかもしれませんが、自分の行動が、成したことが、結果として自分にとって心地良い環境を造り上げることになる…
それが理想です。
こう言えば実現できそうな気がしてきませんか?
その求める環境が、ひとそれぞれ違うわけです。
そして僕は、僕のそれを実現させるために、あの手この手を尽くす訳です。
この話はここでオシマイ。
もちろんひととひととは違う生き物なのですから、それぞれが違います。
でもまるっきり異なる生き物だったら、芸術なんて、コミュニケーションなんて成立しないですよね?
僕の言う「同じ」というのは、そういう根元的な「同じ」です。
ご存知の通り、人間には想像力があります。言葉という高性能な媒介を持っています。
だからそれを駆使して、いろんな人と、例えば国の違う人とも、わかり合いたいと思うわけです。
それは、僕が「演劇」というものに関わり続けている、理由でもあります。
作品は世界中を舞い踊ります(^-^)/
のではないかなぁ~なんて思ってしまうわけですよ!!( ̄▽ ̄@
みなさん、これからもよろしくお願いしま~すっ!!
ではでは。おあとがよろしい(?)ようで…(^O^)/
「躁」は要するに、貯金を使ってるようなものです。今まで貯めこんだ体力・気力が自覚なしに奪われていきます。「躁」の時はこれが普通のような気持ちでいるんですが、実は自分が持っているもの以上の力を出してしまっているんです。
怖いのは「躁」ではなく、その後。貯金を使い果たしてしまったときです。
「躁」になっているときには、大抵本人に自覚はありません。だから「注意しろ」ってのは難しいんですけど、仕事を山のように抱え込んで何をする暇もない、という状況が続くことには気をつけてくださいね。
こうなったら、何回でも書くべきなのかしら。
手を抜け!
気を抜け!
力を抜け!
サボれ!
断れ!
ぼーっとしろーっ!!
仕事よりも趣味よりも何よりも、自分が大事。
あの、他人と会うときは、誰しもすこし緊張はしますよ。初めて会う人や、目上の人ならなおさらです。
それに自分のやりたいことが山ほど目の前にあれば、誰だってがんばりすぎちゃうことはある。
家事も仕事も自分の趣味も、何でも同じだと思うんだけど、力を抜く、引くってことも必要です。罪悪感持つことはないのよ、だって自分が潰れちゃったらそれこそ本末転倒じゃないですか。
だから、おっちーさんが太極拳を始めたのは、すっごいタイムリー♪だと、私は思いました。おっちーさん自身も「運命」という言葉を使ってましたけど、本当にそうだと。真に必要なことは向こうからやってくるんです。急ぎすぎず、力を使いすぎず、だらーーんといきましょう、だらーーんと。
で、携帯洗っちゃったんですけどね、私(ブログ参照のこと。しくしく)
という意味のことをはっきり言われました。
どう思われますか?
昨日2週間に1回通っているお医者に行きました。
そこで先々週にやった脳波の検査結果を聞いたんですが、それは、「緊張の波が出ている。要観察」というものでした。
だからたぶん、僕は人と接するとき、普通より緊張しているのかもしれません。
だからテンションが高くなって、躁に見えるのかも、とも思いました。
おさかさんと会ったときはどう思われましたか?
これ以上病気になるわけにはいきません。
どうしたらいいんだろう? 悩んでいます。少し。
ではでは。
でも、ひとの言葉って「きづき」のきっかけになると思うんですよ。
だから丁寧に扱いたいなーとは思うんです。
やっぱり自分一人の視点は狭いですから。
そのうちもう一回、四つの約束、読んでみますね。
そこにとりあえず、答えがあるような気がする。
ありがとうございます。
ではでは。
おち
http://rojo.at.infoseek.co.jp/
のチラシ作成中、そしてrap-mamという劇団の海外公演の照明プラン作成中のため、お返事書けませーん。
あんまり軽々しいこと書けないし。
そういうわけですみません、お返事もうちょっと待っててくださいね。
移動中の時間とか使って書きますので。
そういえば今朝京浜東北線で人身事故でしたね。
電車止まっちゃって大変でした。
山手線も止まったみたいですしね。
そんなこと書いてるヒマはな~いっ!
のだ。
自分が納得するもの?
他人が納得するもの?
自分の行動の基準、価値観の基準が「他人」にあることほどしんどいことはありません。自分で納得いく結果を出したのなら、他人に何を言われたって気にはならないんじゃないでしょうか。
おっちーさんのいう「成長」が「他人に認められる」とイコールに見えるのが気になります。
「成長」ってのは「自分がなりたい自分になる」ってことではないんでしょうか。他人の言葉はあくまで参考資料です。
批判されりゃあ誰だって凹むし、嫌われていたらもっと凹みます。でも、それはそれだけでも、いいんですよ。きっと。
おっちーさんが前向きな言葉で自分を追い込んでいるように見えて、ちょっと心配。
余談。
私は小さい頃から他人とは違いすぎたので、自分と他人が同じものだなんて考えたことがありません。だから、ひとつ下の記事を読んで、びっくりしています。
理解しようと努力するのは、理解できないからですよ。「同じもの」ならそもそも理解しようとすること自体が必要ない。(屁理屈?)
ただ何の「バランス」なのか、これだけだと意味不明ですけど……
何でもいいほうにとらえましょう。
だって性格だって、どういうのがいいか?っていうのは意見が分かれますよね
「誰にでも愛想がいい、八方美人」
というのはポジティヴに考えると
「優しい、人当たりがいい」
といいますし
「頑固で人の気持ちを考えない」
というのはある場面では
「決断力があって人を引っ張っていく力がある」
なんて評価されたりする
絶対的に「素晴らしい自分」なんてものはないんだと思います
常に相対的なもの
だったらいいほうに考えたほうがいいじゃないですか?たまには反省したほうがいい場合もあるけど、基本的に人に何か言われたらムカっとくるのが人情というものでせう(笑
結局自分の気持ちが固まらないと動けないんです
人の言葉では動かない
育児してるとその辺がすっごーくよくわかりますよ
大人も一緒です!(断言
人があなたを尊敬しようが、あなたを卑下しようが、それはあなたに投影されたその人の想いの表出だけであって、あなたの価値とは一切関わりはない。人の存在価値を比べることの意義は全く無く、其々の存在の愛しさ、無限さを喜び合うことだけが、意義と呼ばれるものだ。
淋しいと思うでしょうけれど、本当にコニュミケーションするとは、難しい。反応なしに、静かにその人の事を集中して聴ければ、虚と真の見分けがつき、その人が言っていることの、その奥にある本当の心が見えてくると思います。
それには、自分の感情的な振幅をも把握しながら、自分の心の統制という問題もあります。これが非常に難しい。コントロールしようと意気込まずに、自分の心の気づきを保つということです。そうです、動と静が一つになっている状態。公園にある、あのシーソーの支店にいえ、支点である感覚、気づきでしょうか。
そうなると、疲れません。世界が反転して、自分の夢が世界に投影しているだけだと気づき、ワクワクが始まります。そうです、選択できるのです。自由があるのです。創造があるのです。
宇宙はあなたの描く通りになっていきます。どんなことも。
あなたの愛に祝福を。
批判してくれる人を大切にしよう。
と、思いました。
誉めるのって意外と簡単なんですよね。
案外誉めるだけの方って冷たいと感じる時があります。
僕って誉められてばっかりで生きてきたので、批判されることに慣れていません。
だから他の方々もそれを察してか、あまり批判的なことは、口にしてくれないんですよねえ。
もうちょっと心を大きく持とう。
そうすれば本音を口にしてくれるかも。
ヴァッキーさんありがとう。
ボクもしばらく痛いです。
でも、絶賛され続けすぎてもゼッタイおかしいですよ。
だいたい、誉められすぎるなんてありえませんよ。
賛否両論ってのがサイコーに刺激的です。
ボクは何をするにもそれを念頭に置いています。
ボクのテーマといってもいいと思います。
賛否両論。
座右の銘です。