精神のたたかい 立野正裕 スペース伽耶
テーマは非暴力主義についてである。冒頭の「徹底的非暴力主義を目ざしてーー大西巨人氏との対話」が本書の基調を成している。大西巨人の「神聖喜劇」の主要テーマの一つである「兵士の論理をどう越えるか」についての対談で、天皇制・軍隊についての鋭い考察が披瀝される。大西の「あの戦争で死んだ者は英霊などではない。彼らの死は、天皇制のもとで滅私奉公を強いられたあげくの犬死にであると認めることこそ、ほんとうの追悼になると私は思うてるんだよ」という言葉はあの戦争の本質を言い当てている。したがって加藤典洋が「敗戦後論」(講談社)で「三百万の戦争犠牲者の哀悼を通じて国民を立ち上げる」という立論は無効になるわけだ。
著者は言う、国家的暴力装置である軍隊と兵士という図式の中で、兵士は絶対服従という軍隊規律を通して人格的に拘束され、その拘束が人格の道徳的無規律を結果する。命令と服従という軍隊規律の狭い往還の中で、道徳はやすやすと扼殺される。葛藤を維持しながら良き兵士であり続けることは困難であり、その困難に耐えることを自らに課すような精神的態度を、日本軍兵士は自分のうちに見出しがたかったのであると。例えば中国大陸で度胸をつけると称して、中国人捕虜を銃剣で突き刺すことを命じられたとき、ほとんどの日本軍兵士らがそれを拒否しなかったのはその一つの証明だ。
大岡昇平の「俘虜記」に、至近のアメリカ兵を撃つか撃つまいか逡巡して、結局撃たなかった話が出てくるが、これは人間として当然の行為なのだ。戦争は人間の中の動物的なものの領域を解放させることによって、兵士の戦意を旺盛にしようとする。このとき動物的部分のほかの面も同時に解放される。強姦残虐が戦争につきものであるのはこのためである。戦争だから仕方が無いというのは、戦争犯罪不成立論への道を拓くだけだろう。日本軍兵士はあまりにたやすく「人間」としての自分を放棄したのではないかというのが、著者の見解だが、首肯できる部分が多い。
日本兵の自律心の脆弱さは敵の捕虜になったときに顕著に表れたようだ。彼らは捕虜になるといとも簡単に自白し、敵の尋問に協力したという話を以前読んだことがある。ソ連や中国の洗脳にも易々と受け入れた事実がある。このようなメンタリティーが戦争犯罪を助長したのではあるまいか。ナチのユダヤ人殲滅とは違った意味で日本人のあり方が問われているような気がする。