竹とんぼ

家族のエールに励まされて投句や句会での結果に一喜一憂
自得の100句が生涯目標です

耳しいとなられ佳き顔生身魂  鈴木寿美子

2019-08-12 | 今日の季語


耳しいとなられ佳き顔生身魂  鈴木寿美子

季語は「生身魂(いきみたま)」で秋。平井照敏の季語解説から引いておく。「盆は故人の霊を供養するだけでなく、生きている年長の者に礼をつくす日でもあった。新盆のないお盆を生盆(いきぼん)、しょうぼんと言ってめでたいものとする。そして、目上の父母や主人、親方などに物を献じたり、ごちそうをしたりし、その人々、およびその儀式を生身魂と言った。食べさせるものは刺鯖が多く、蓮の葉にもち米を包んだものを添えたりする」。つまり現在の「敬老の日」みたいなものだが、敬老の日よりも必然性があると言えるだろう。彼岸に近い存在である高齢者を直視し、故に敬老の日のような社会的偽善性は避けられ、長寿への賛嘆と敬意の念が素直に表現されているからだ。この句もそうした素直な心の発露であり、それをまた微笑して受け入れる土壌が作者の周辺にはあるということである。子規の句にもある。「生身魂七十にして達者也」。いまでこそ七十歳くらいで達者な方はたくさんおられるけれど、子規の時代には相当なお年寄りと受け取られていたにちがいない。私が子どものころだって、七十歳と言えば高齢中の高齢だった。一つの集落に、お一人おられたかどうか。小学生のときに「おれたちは21世紀まで生きられるかなあ」「六十過ぎまでか、まあ無理じゃろねえ」と友だちと言い交わしたことを思い出す。もちろん、村の高齢者の年齢から推しての会話であった。今日は、旧盆の迎え火。『新版・俳句歳時記』(雄山閣出版・2001)所載。(清水哲男)

例句 作者

つぎの世も人とはあるを生身魂 柴田陽子
にこにこと分らずじまひ生身霊 清水基吉
三桁まで生きるつもりの生身魂 堀上一成
南無々々と他力本願生身魂 谷下一玄
古里にふたりそろひて生身魂 阿波野青畝
大賢は大愚に似たり生身魂 河波青丘
生身魂ときどき死んだふりをして 室生幸太郎
生身魂土砂空隙に立つてゐた 村岸明子
生身魂紙縒のピンと立つてゐる 林満子
生身魂縄文杉を称へけり 石河義介

招き招ける手はからくりの秋扇  森田 雄

2019-08-11 | 今日の季語


招き招ける手はからくりの秋扇  森田 雄

暑さのぶり返しに備えて、仕舞わずに身の傍らに置いている秋扇。無用のものに名残の名前をつける、いかにも俳句らしい季語だと思う。一読、扇を持っておいでおいでと招き寄せているように思うが、招いているのは扇ではなく手。繁華街でキャバレーの呼び込みなどやっているが、あの手の動きだろうか。多分この「秋扇」は無用のもの、時期を過ぎたものという意味的な働きを強調するため置かれているのだろう。理に落ちた見方かもしれないが、季語の情緒的な要素を破壊するため置かれているとも思える。人を迎え入れる心もないのにひらひら人を招き寄せる手。異物化された手がからくり仕掛けの扇となって動くイメージは「秋扇」の語の醸し出す空しさと重なって忘れられない印象が残る。第2次「未定」(2012年94号)所載。(三宅やよい)

秋扇】 あきおうぎ(・・アフギ)
◇「扇置く」 ◇「忘れ扇」 ◇「秋扇」(しゅうせん) ◇「名残の扇」 ◇「捨扇」(すておうぎ) ◇「秋団扇」(あきうちわ) ◇「団扇置く」 ◇「捨団扇」(すてうちわ)
秋になって顧みられなくなった扇。また、残暑の候なお用いている扇。夏の名残を惜しむ心が湧く。夏の外出時に持ち歩いた扇が使われないままバッグの底にあることもいう。同じく「秋団扇」は秋になっても用いるうち団扇。または、しまわずに置いてある団扇のこと。

例句 作者

酔ふまじき酒の座にゐつ秋扇 村山古郷
秋扇たしかに帯にもどしけり 久保田万太郎
帯といて落たる秋の扇哉 松瀬青々
花よりも鳥美しき秋扇 後藤夜半
秋扇や高浪きこゆ静けさに 水原秋櫻子
亡き妻の秋の扇を開き見ぬ 佐藤漾人
老人に飽きしと父が団扇置く 柴田佐知子
美しき忘れ団扇の山家かな 大峯あきら
愚かなるきのふの美食扇置く 菅原鬨也
秋扇半開きにて使はるる 能村研三

天の川由々しきことに臍がある  永末恵子

2019-08-10 | 今日の季語


天の川由々しきことに臍がある  永末恵子

空気の冴えた田舎の暗闇に初めて天の川を見たのは、三十近くになってからだった。夜空の中央に白っぽく明るんでいる帯が天の川だと教えられたときには「MilkyWay」の命名の妙に感じ入ったものだった。が、同時に頭上の銀河は想像していたきらきらしさにはほど遠く、その落差にちょっとがっかりもした。永末の句は言葉の展開に、ふっと虚をつかれるような意外性がある。俳句とともに連句もこなす作者は、付けと転じの呼吸から俳句の上五から中七座五へと綱渡る感覚を磨いたのだろうか。予想のつかない言葉の転がりに読み手がどのぐらい丁寧に付き合ってくれるか定かではないが、それもお好みのままに、と言った淡白さが持ち味に思える。中天にかかる「天の川」を思う気持ちは「由々しきことに」と普段使わぬ古風な言葉に振りかぶられ、身構える。そこに座五で「臍がある」と落とされると、なぁんだ、と気が抜ける同時に臍があること自体が由々しきことのような不思議な感触が残る。頭上に流れる壮大な天の川から身体の真ん中にある臍へ。その引き付け方に滑稽な現実味が感じられる。『借景』(1999)所収。(三宅やよい)



【天の川】 あまのがわ(・・ガハ)
◇「銀河」 ◇「銀漢」 ◇「雲漢」
無数の恒星の集まりで、川のように見える。秋には天頂に来るので、目立つ。最近は都会では殆ど見ることはできないが、山などでは帯状の天の川が鮮やかに観察され、実に美しい。英語ではミルキーウェイ(Milky Way)というが、まさに空にミルクをこぼしたようである。また、七夕の伝説とも結びついている。「銀河」「銀漢」「雲漢」など呼び名も多い。

例句 作者

天の川逢ひては生きむこと誓ふ 鷲谷七菜子
死出の衣も産着も白し天の川 西川織子
銀漢のこの世におくるほの明り 道山草太郎
天の川濃きひとところ大魚棲む 栗山恵子
草原や夜々に濃くなる天の川 臼田亜浪
僧と見し比叡の銀河凄じき 伊藤柏翠
老いぬれば銀河を仰ぐことも稀 田中延幸
笛吹のひとりが銀河より降りる 佐野鬼人
嬰生まるはるか銀河の端蹴つて 小澤克己
うすうすとしかもさだかに天の川 清崎敏郎

朝顔の紺の彼方の月日かな  石田波

2019-08-09 | 今日の季語


朝顔の紺の彼方の月日かな  石田波郷

波郷二十九歳の作品だが、既に老成したクラシカルな味わいがある。句のできた背景については「結婚はしたが職は無くひたすら俳句に没頭し……」と、後に作者が解説している。朝顔の紺に触発されて過ぎ去った日々に思いをいたしている。と、従来の解釈はそう定まっているようだが、私は同時に、未来の日々への思いもごく自然に込められていると理解したい。過去から未来への静と動。朝顔の紺は永劫に変わらないけれど、人間の様子は変わらざるを得ないのだ。その心の揺れが、ぴしりと決まった朝顔の紺と対比されているのだと思う。『風切』所収。(清水哲男)

【朝顔】 あさがお(・・ガホ)
◇「牽牛花」(けんぎゅうか) ◇「蕣」(あさがお)
ヒルガオ科の一年生蔓草。明け方に、紺、白、紅、青色などの漏斗状の花を開いて美しいが、午前中にしぼんでしまう。現在の朝顔は夏が盛りだが、朝顔に「秋」を感じるのが詩心と言われる。立秋以後の朝顔の花は小さくなり、日ごとにか弱くなっていく。

例句 作者

朝顔のいきなり十も咲きにけり 星野芋秋
朝顔の紺のかなたの月日かな 石田波郷
朝顔やおもひを遂げしごとしぼむ 日野草城
朝顔や天を仰ぎて喇ぐ 福田蓼汀
あさがほの日々とめどなく咲くはかな 久保田万太郎
この頃の蕣藍に定まりぬ 正岡子規
あさがほに我は飯くふ男哉 芭蕉
朝顔の紺の彼方の月日かな 石田波郷
朝顔や河岸の向うに日が当り 五所平之助
朝がほや一輪深き淵のいろ 蕪村

川半ばまで立秋の山の影 桂 信子

2019-08-08 | 今日の季語


川半ばまで立秋の山の影 桂 信子

立秋。ちなみに、今日の東京地方の日の出時刻は4時53分だ。だんだん、日の出が遅くなってきた。掲句では、昼間の太陽の高度が低くなってきたところに、秋を感じている。立秋と聞き、そう言えばいつの間にか山影が伸びてきたなと納得している。視覚的な秋の確認だ。対して、聴覚的な秋の確認(とはいっても気配程度だが)で有名なのは、藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる」だろう。『古今集』の「秋歌」巻頭に据えられたこの一首は、今日にいたるまで、日本人の季節感覚に影響を与えつづけている。俳句作品だけに限っても、それこそおどろくほどに、この歌の影響下にある句が多い。「秋立つや何におどろく陰陽師」(蕪村)等々。したがって、掲句の桂信子はあえて聴覚的な気配を外し、目にも「さやかに」見える立秋を詠んでみせたということか。いつまでも「おどろく」でもあるまいにという作者の気概を、私は感じる。ところで、秋で必ず思い出すのはランボーの『地獄の季節』の最後に収められた「ADIEU」という詩。「もう秋か! それにしても俺達は、なにゆえに永遠の太陽を惜しむのか」(正確なな翻訳ではありません。私なりの翻案です)ではじまる作品だ。ここには、いわば反俳句的な詩人の考えが展開されている。日の出が早いの遅いのなどという叙情的季節感を超越し、ひたすらに「聖なる光明をを希求する」(宇佐美斉)若者の気合いが込められている。『新日本大歳時記・秋』(1999・講談社)所載。(清水哲男)

【立秋】 りっしゅう(・・シウ)
◇「秋立つ」(あきたつ) ◇「秋来る」(あききたる) ◇「秋に入る」 ◇「今朝の秋」 ◇「今日の秋」

二十四節気の一つ。8月7日か8日頃に当たる。山岳地帯などを除いてはなかなか暑いが、夏も峠を越え、秋に向かう気配がどことなく感じられる。また、立秋の日の朝は「今朝の秋」といい、秋の到来を一層敏感にとらえている。いつもの景色が昨日までとは違い、どこか秋の訪れを感じさせる。そんな感覚を持つのは朝であろう。

例句 作者

秋に入る馬の並足速足も 猪俣千代子
立秋の夜気好もしく出かけけり 高浜年尾
温泉の底に我足見ゆるけさの秋 蕪村
宿を出て神あり詣づ今朝の秋 荻原井泉水
けさ秋の一帆生みぬ中の海 原 石鼎
和三盆口にほどけて今朝の秋 三島富久恵
今朝の秋紅茶のレモン透きとほる 河村凌子
ゆきひらに粥噴きそめし今朝の秋 石川桂郎
立秋のたちまち空の高さかな 鹿志村余迷
桜蘭にオカリナ吹かな秋立ちぬ 菅原鬨也

北窓開く自画像のこる子供部屋  たけし

2019-08-07 | 入選句


北窓開く自画像のこる子供部屋 たけし



8月3日開催のNHK武蔵野市俳句大会で

小島健先生の選で佳作を頂いた



NHK俳句大会での入選は

ここのところ無かったので嬉しい

入選句が秀句、佳句を証明するものではないのだが

ひとりよがりの自得に他所からの選は力を与えてくれる



この句は孫娘が美大に入学し

単身学生寮に入ることになって空き部屋になった部屋

久しぶりに空気を入れ替えようと部屋に入ると

彼女の描いた自画像が眼に入った



そこで出来た句

なんの飾りも工夫もないのが良かったように思っている

浴衣着て全身の皺のばしけり 米津勇美

2019-08-03 | 今日の季語


浴衣着て全身の皺のばしけり 米津勇美

一読、小さく笑ってしまったのは、「全身の皺」をのばしている人の姿を思い浮かべてしまったからです。浴衣の皺かもしれませんが、むしろ本人の心身の皺のことを詠っているように感じられます。仕事着を脱ぎ、浴衣に着替えて、大きく伸びでもしたところでしょうか。もしかしたら、休暇をとって温泉宿にでも到着した時のことなのかもしれません。読んでいるだけでぐっと背筋を伸ばしてみたくなるような、心地よさを感じます。洋服の皺を伸ばすならもちろんアイロンでしょうが、体の皺をのばすとなれば、マッサージチェアーに座るか、あるいは人の手に揉みほぐしてもらうことになるのでしょう。それにしてもどうして生き物というのは、体に触れられて適度な力を加えられることが、あれほど気持ちのよいものなのでしょうか。わたしの場合、最近はもっぱら我が家の犬をそばにおいて、体中をさわってあげることに終始しています。そのうち犬は、あまりの気持ちよさに仰向けになって、脚をピンと伸ばしてきます。その姿を見ているだけで、心の中に一日たまったわたしの皺も、自然と伸びてくるようです。「朝日俳壇」(「朝日新聞」2010年7月11日付)所載。(松下育男)

浴衣】 ゆかた
◇「湯帷子」(ゆかたびら) ◇「古浴衣」 ◇「初浴衣」 ◇「藍浴衣」 ◇「浴衣着」
元は入浴後などに素肌にじかに来た「湯帷子」(ゆかたびら)の略。今では、夏に着る木綿の白生地を藍色などに染めたりしたものをいう。
例句 作者

待針といふは佳き名の浴衣かな 鈴木栄子
浴衣にて鍵をしめをり古物商 川崎展宏
共に着て母若返る湯の浴衣 馬場移公子
浴衣着にかへて見てゐる鱚の海 飯田龍太
浴衣だけ着てみる遠き笛の音 林 翔
こいさんのまま老いたまふ浴衣かな 三村純也
わが浴衣子が着れば子の若さなる 吉野義子
いつ死ぬか解らぬいのち古浴衣 尾村馬人
借りて着る浴衣のなまじ似合ひけり 久保田万太郎

花火師か真昼の磧歩きを   矢島渚男

2019-08-02 | 今日の季語


花火師か真昼の磧歩きを   矢島渚男

磧は「かわら(河原)」。今夜花火大会の行なわれる炎熱の河原で立ち働く男たち。花火師を詠んだ句は珍しい。中学三年のとき、父が花火屋に就職し、私たち一家は花火屋の寮に住むことになった。だから、花火や花火師についての多少の知識はある。指の一本や二本欠けていなければ花火師じゃない。そんな気風が残っていた時代だった。工場で事故が起きるたびに、必ずといっていいほど誰かが死んだ。花火大会の朝は、みんな三時起きだった。今でも打ち上げ花火を見ると、下で働く男たちのことが、まず気になってしまう。(清水哲男)

花火】 はなび
◇「煙火」 ◇「打揚花火」 ◇「遠花火」 ◇「仕掛花火」 ◇「花火舟」
単に「花火」といえば花火師が揚げる打上花火や仕掛花火を指し、庭などで楽しむ「手花火」「線香花火」などとは別けて用いる。夏の夜空にぱっと花開く花火は見事で美しく、両国の花火をはじめ江戸時代から庶民の大きな楽しみであった。

例句 作者

あぶな絵のやうな二階や揚花火 櫛原希伊子
遠花火さらに遠きが加はりぬ 和田知子
遠花火浴後の女匂ひけり 廣瀬直人
当直医遅き餉をとり花火の夜 馬場駿吉
花火見の船らし沖にとどまれる 大星たかし
花火の夜少年の靴枝にささり 小檜山繁子
部屋中に旅装を解けり遠花火 澤田英夫
灯を消して遠き花火をもてなしぬ 和田知子
福耳と芸者がほめぬ遠花火 木暮剛平
花火果てつねより深き闇のこる 佐藤 愛

ふるさとに知らぬ町の名柿の花  たけし

2019-08-01 | 入選句


ふるさとに知らぬ町の名柿の花  たけし



8月1日

産経新聞の俳壇、寺井谷子先生の選をいただいた

寺井先生の選は今年3度目になる



この句の初案は、昨年の五月だった

下五が「蕎麦の花」だったかと思う

上五中七は動かないので何回か添削している

投句も一度ならずなのだが入選はなかった



自分としては気に入っているので

何人かの選者を指定もしていたところ

今回の入選を得た

入選句が秀句ではないと理解はしているが

捨てられ自句が認められるのは何よりも嬉しい

大きな励み位になった