快気分析

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仕組みとアプローチ -  秀吉が出世競争で明智光秀にせり勝つには毛利氏と連携・共謀するのが早道だったのは確か

2021-01-04 22:42:37 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 単刀直入にわかりやすく言えば、「秀吉が出世競争で明智光秀にせり勝つには敵方である毛利氏と連携・共謀するのが早道」だった可能性が高い、と言う事です。
 出世競争だけではなかったかも知れませんが、気に入らない味方の武将を消しちゃおうとした例は、小西行長が加藤清正の居所などの軍事機密を敵方に敢えてリークした例(結局失敗)が有ります。
 信長が最後に残したと言われている言葉「余は自ら死を招いたな」とは「家臣同士の競争をあまりにも煽ると、それがアダとなって敵方と共謀してしまう、と言う事に信長が気が付いた」と言う事だったのかも知れません。
 

仕組みとアプローチ -  長曾我部氏が信長に恭順する姿勢だった可能性は高いと考える理由

2021-01-04 20:54:17 | 明智光秀
 本能寺の変の前、信長は毛利討伐と長曾我部討伐を同時に決行しようとしていました。
 それで長曾我部氏が信長に敵対する姿勢だったのか?、それとも信長に恭順する姿勢を見せ始めていたのか、と言う点ですが、一つの見方として後者の方の可能性は高いと思っています。
 理由は石谷家文書にある内容だけでなく、仮に長曾我部氏が信長に敵対する姿勢が強かったならば、毛利氏と連携をとって様々な事が出来たはずだからです。
 例えば、毛利氏に匿われていた足利義昭を鞆から四国経由で上洛させ、室町幕府奉公衆らを総決起させたり、或いは明智光秀をサポートしたりもできたはずだし、或いは毛利氏と組んで瀬戸内海の制海権を秀吉方から奪回する事も有る程度可能だったはずではないでしょうか。
 ところがそうした動きが全く記録に見当たりません。
 仮に毛利氏が秀吉と癒着、共謀関係に有ったなら長曾我部氏から毛利氏への連携の誘いを秀吉が介入して毛利氏が連携の話を断っていた、と言うのなら理解できる気がします。
 そして長曾我部氏は毛利氏と連携出来ない事がわかり、信長に恭順する意思を示した文書を送った(石谷家文書)その直後に本能寺の変が発生したのでした。
 信長に恭順する文書が効果を発揮してしまうと困るのは誰でしょう?
 明智光秀のライバル秀吉と信長に滅亡させられそうだった毛利氏ではないでしょうか。
 やはり秀吉と毛利氏の関係は怪しかったと考えてしまうのですが、真相はどうだったのでしょう。