本能寺の変が何故6月2日の明け方からだったのか?と言う件については、いくつか理由が有り、一つは明智の軍勢が中国攻めの為の兵の集結があっても不自然ではないほぼ最後ののチャンスだった事、そしてもう一つは織田信孝を四国遠征に向かわせて6月2日から出航と言う時だった事が挙げられます。
そして既に記事に書いた通り、前日の茶会で実体(影武者でない本物の信長)が本能寺にいる事が把握できた事ももう一つの理由なのですが、では6月1日の夜に信長が万が一危険を察知して本能寺を抜け出せたら襲撃は空振りに終わってしまいます。
そこで信長が容易には抜け出せない条件が必要となって来ます。
それが何か?と言うと、当日が新月であった事だと考えています。
旧暦は月齢を基準にしているので1日は新月であり、当時は新月の夜は街灯も無く、ほぼ真っ暗で自分の手元もわからない位に暗かった事、仮に灯篭や建物から漏れる明りなどで多少明るい所があってもその光が届く範囲は限られ、信長が本能寺から出ようとするならば当然、松明などの灯りを持たねばいけません。
松明など持てばすぐに見つかります。
おそらく本能寺の周囲には6月1日の茶会が終わった直後から見張りがいて信長が松明を持った家来と移動していないかを夜通しで監視していたものと思われます。
一方の斉藤利三を中心とする明智軍は月夜であれ、戦闘時でもなければ新月の闇夜であれ兵や軍馬などが松明などの灯りを持った兵と共に移動するのは自然です。
寧ろ松明があった方が戦闘態勢ではなく不審ではないと周囲には思われたケースも考えられます。
これは信長を襲撃する明智軍にとっては好条件だったのではないでしょうか。
そして明智軍は予定通り信長を討ち取り、嫡男の信忠もその後討ち取ります。
そして既に記事に書いた通り、前日の茶会で実体(影武者でない本物の信長)が本能寺にいる事が把握できた事ももう一つの理由なのですが、では6月1日の夜に信長が万が一危険を察知して本能寺を抜け出せたら襲撃は空振りに終わってしまいます。
そこで信長が容易には抜け出せない条件が必要となって来ます。
それが何か?と言うと、当日が新月であった事だと考えています。
旧暦は月齢を基準にしているので1日は新月であり、当時は新月の夜は街灯も無く、ほぼ真っ暗で自分の手元もわからない位に暗かった事、仮に灯篭や建物から漏れる明りなどで多少明るい所があってもその光が届く範囲は限られ、信長が本能寺から出ようとするならば当然、松明などの灯りを持たねばいけません。
松明など持てばすぐに見つかります。
おそらく本能寺の周囲には6月1日の茶会が終わった直後から見張りがいて信長が松明を持った家来と移動していないかを夜通しで監視していたものと思われます。
一方の斉藤利三を中心とする明智軍は月夜であれ、戦闘時でもなければ新月の闇夜であれ兵や軍馬などが松明などの灯りを持った兵と共に移動するのは自然です。
寧ろ松明があった方が戦闘態勢ではなく不審ではないと周囲には思われたケースも考えられます。
これは信長を襲撃する明智軍にとっては好条件だったのではないでしょうか。
そして明智軍は予定通り信長を討ち取り、嫡男の信忠もその後討ち取ります。