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仕組みとアプローチ -  土岐頼芸は甲州に何故いたのか? 上総武田氏 上総土岐氏 常陸土岐氏 後北条氏との軍事同盟の準備だった可能性

2020-10-22 09:10:55 | 明智光秀
 信長による甲州征伐で決着がついた時、武田氏に庇護されていた土岐頼芸が発見されました。
 
 その土岐頼芸ですが、この前は上総土岐氏である土岐為頼を頼り、更にその前は弟の治頼がいる常陸国に身を寄せていたようです。
 何で土岐為頼が土岐頼芸を追い出すような事をするのでしょうか? 追い出すなどと普通は考えられないと思っています。
 では何で親族の下を離れて甲州に土岐頼芸が赴いたのでしょうか?
 個人的な見方に過ぎませんが、結論から言いましょう。
 それは「甲州武田氏と上総土岐氏、常陸土岐氏、上総武田氏、そして当時土岐氏と連携を深めていた北条氏との軍事同盟の為」ではないでしょうか。
 長篠の戦いで信長の織田勢に大敗した武田勝頼は再起を試みるも多くの優秀な指揮官を失っており、単独では勝てる力がもう無くなっていた為、上総武田氏、上総土岐氏、常陸土岐氏、更には上総土岐氏等と同盟関係に有った北条氏と連携して「強大になりつつあった織田勢に対抗しようとしていた」事は十分に考えられます。
 では何故上総土岐氏に目を付けたのか?ですが、それは武田氏は上総にも有ったからではないでしょうか。
 上総の武田氏は当時上総武田氏最後の当主となった武田豊信であり、この人物が武田信之 (武田信玄三男)と同一人物と言われることもあるようです。
 いずれにしても甲斐武田氏と関係が深いと考えられ、更に1576年(1575年の長篠の戦いの翌年)に武田豊信は里見氏を離れ古河公方足利義氏の傘下に入った事から、上総土岐氏と敵対関係ではなくなっていたようです。
 このような当時の状況からすると織田勢の脅威にどう対処するかで窮地にあった武田勝頼が何とか上総武田氏を中心に上総土岐氏や常陸土岐氏、北条氏と同盟して織田勢に対抗しようと考えていたとしてもごく自然な事ではないでしょうか。
 この上総武田氏の当主、武田豊信ですが、織田勢からの和睦の斡旋が有ったにも拘わらずそれを拒否し最後まで後北条方について1590年、北条征伐の後に徳川勢の進軍で上総武田氏は滅亡したのでした。(実際にはかなりの将兵が戦死せずに徳川方に組み込まれた上、武田豊信までもが落ち延びた可能性も高いと思っています。)
 最後まで後北条方に与して形式上は滅亡したと言う面では上総土岐氏ともじです。
 「信長が甲斐武田氏と北条氏、上総土岐氏、常陸土岐氏との軍事同盟が成立しそうなのを嗅ぎ取って先手を打って甲州征伐を実行した」と言う可能性は有るのでしょうか。
 ある程度の可能性は考えられるとは思います。
 その証拠と言えるかどうかまでは定かではありませんが、甲州征伐に於いては土岐一族である明智光秀が戦線の指揮官から外されていますね。


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