快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  明智光秀が山崎の戦いで大敗した要因を考える 明智勢が山崎町の東門を無用心に叩いたのは何故か

2019-07-01 08:13:48 | 明智光秀
 山崎の戦いについての謎めいた点がいくつか有りますが、その一つが次の点です。

引用開始(一部抜粋)

ルイス・フロイスの書いた「1582年日本年報追信」

―突然、明智の兵が村の門を叩くに及んで、ジュストはこれ以上待つことを望まず、また、彼は勇猛でデウスを深く信じ、戦時には勇敢なので、一千にも満たぬわずかな兵を率いて門を開き敵に襲いかかった。キリシタンはこれを勇敢に行なって一人の死者を出したのみであったが、最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を二百以上取った

引用終了

 高山右近の「一千にも満たぬわずかな兵」が開けられた東門から一斉に明智勢を急襲し、「最初の合戦ではたちまち明智の身分の高い者の首を二百以上取った」事がそもそも明智勢の意識高揚の面で敗退の大きなトリガーになったと思われるのですが、「明智勢が何故用心せずほぼ無防備のまま東門を叩いたのか?」と言う点について当時の状況を考えて見る必用が有ると思えます。
 この点についてはいくつかの見方が有ると思えるので考えられる事を列記してみます。

 1. 明智勢は高山右近が秀吉方へ加勢したとは考えていなかった為、山崎町を占拠したとは思ってい   なかった。なので町衆が治安維持の為か何かで東門を閉めていたと勘違いした。
 2. 明智勢は高山右近が秀吉方へ加勢したとは考えていなかった為、高山右近が明智勢として山崎町   を占拠したとは思っていた。なので秀吉勢から守る為か何かで東門を閉めていたと勘違いした。
 3. 明智光秀は高山右近が秀吉方へ加勢したとほぼわかっていたが、それを家臣や兵士らにうまく伝   達できていなかった為、東門周辺にいた明智勢の部隊は上記の1や2のケースで行動してしまっ    た。
 4. 明智勢は高山右近が秀吉方へ加勢したとわかっていたが、まさか明智光秀による禁制の出ていた   山崎町を占拠するとは思っていなかった。なので東門を閉めたのは町衆かと思った。
 5. 明智勢は高山右近が秀吉方へ加勢し、山崎町を占拠したのをわかっていたが、兵力数は知れてお    り、秀吉の軍勢は未だやや離れた所に有った事や兵の多くが疲れていたらしい情報を得ていたの   で威圧すれば高山右近の軍勢は降伏すると思っていた。

 果たして上記のどれが史実だったのでしょうか。
 ルイス・フロイスは高山右近とその軍勢を「彼は勇猛でデウスを深く信じ、戦時には勇敢なので、一千にも満たぬわずかな兵を率いて門を開き敵に襲いかかった」といわば勇敢で堂々とした戦いのように書いていますが、キリシタンが卑怯にも寝返ったとは書くわけもなく実際は急な寝返りに近い面が無くも有りません。
 ただ明智光秀に加勢の返事をしたのは高山右近の家臣らであって高山右近本人ではないし、当時の状況では明智勢が軍事制圧していたエリアが多くてとても「明智方には加勢できない」などとは言えなかったわけでこれもグレーゾーンと言う見方が出来なくも有りません。
 そして実は明智光秀は高山右近が秀吉方へ加勢したらしい事に気がついていたらしき史実が存在します。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E5%9F%8E_(%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%9B%BD)

天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、中国大返しで中国地方から畿内へ引き返してきた羽柴秀吉、神戸信孝連合軍の侵攻に備えるため、男山城と山崎城に陣取った明智光秀軍であったが、何故か淀古城、勝竜寺城へ一時撤退した。翌日羽柴軍が山崎城に陣取ったため優勢となり、光秀は逃亡、討死する結果となった。

引用終了

 山崎城は山崎町の約北側にあり、そして男山城は川を挟んで約南側に有りました。
 ここを光秀が押えたのは、禁制の出されていた山崎町を避けてその脇を進軍してくると考えられた秀吉の軍勢をこの二つの城とその周辺で待ち構えていた明智勢が側面から襲撃しようとする計画だったと考えられるのですが、この二つの重要拠点を光秀は何故か放棄して勝竜寺城に拠点を移してしまうのです。
 これが何を意味するのか?となるのですが、それは「山崎町は秀吉方へ加勢した高山右近が占拠してしまったのでもはや秀吉の軍勢は山崎町の脇を通る必用が無くなり、山崎城や男山城の2大拠点から襲撃する意味が無くなった」、と言う事ではなかったかと思っています。
 この時点で既に明智光秀は敗北を悟ったのでしょうが、高山右近、そしておそらく近縁の中川清秀が秀吉方へ加勢した事を明智方の家臣や兵らに言ってしまうとそれだけで戦意低下と兵の離散などが起きて総崩れとなる可能性が有る為、とりあえず戦えるだけ戦って見るしか無いと考えた可能性は否定できません。
 確かに体力消耗が激しかったと言われる秀吉本隊の軍勢は野戦ではあまり戦力にならない可能性も有ったわけで、その事を光秀もわかっていたのなら、まだ戦える可能性は有ると思っていたのかもしれないとも考えられます。
 結果から言えば篭城して兵力や武器弾薬などの損失をいくらかでも少なくした方が良かったのでしょうが、やはり秀吉勢の中国おお返しまでは想定していなかった為と、そして明智勢は毛利討伐へ出陣の途中だった為、城にはあまり食料、武器弾薬などが備蓄していなかった事が光秀を野戦に近いものに駆り立てた一つの要因だったかとも思えます。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。