新年早々、石川県能登地方で発生した大地震ですが、この地震で金沢城(現在は金沢城公園)の石垣が4か所で崩落し、金沢城公園と、隣接する兼六園を臨時閉園となりました。
金沢城については次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E
築城主 佐久間盛政
築城年 天正8年(1580年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 長屋・門・櫓・土蔵・土塀
移築能舞台・石垣・堀
(中略)
金沢城(かなざわじょう)は、加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にある日本の城。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されており[1]、城址を含む一帯は金沢城公園(かなざわじょうこうえん)として整備されている。
(中略)
2024年(令和6年) - 1月1日に発生した令和6年能登半島地震の影響で、4か所の石垣が崩壊。[14]翌2日より安全確認が取れるまで当面の間、公園内と兼六園を臨時休園とし、開催中の夜間開園及びライトアップの中止を決定した。[15][16]
引用終了
金沢城が強い地震に遭ったのは何も今回だけではないのですが、過去の大地震で石垣が崩落したかどうかと言う記録は今の所、ネットでは調べ切れていません。
ただ今回が初めての石垣崩落だとしたら、1580年の築城以来、440年以上で初めてと言う事になります。
そう言えば熊本地震の時には熊本城の石垣が崩落しました。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E
熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市中央区(肥後国飽田郡熊本[注釈 1])にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」[1]。
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。
(中略)
熊本地震以降
2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ揺れで被災した[9]。
4月14日発生の地震では、石垣の一部が6箇所の崩落のほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊[10]。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下[10] と報じた。
本震の4月16日未明の被害については、熊本城総合事務所は「余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様」[11]。その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破った[12]。
2016年6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告があった。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあった。そのうち、崩落は50カ所、229面におよんだ。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟であったが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となった。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告された[3]。石垣の大きな崩壊の原因の一つとして、石垣の上に樹齢50-100年の大木が立っていたことを環境建築研究者の岡田好勝は指摘している。樹木は地上の部分の方が根よりも重く、枝の広がりもあって、根は揺れによるモーメントを根回りの土壌に逃がそうとする作用が働き、その反作用で根が埋まっている周辺の石垣に相当な圧力をかけたため崩落を助長したとする主張である[13]。
(中略)
石垣
清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。
2016年の熊本地震の際には石垣の約3割が崩落する被害を受けたが、その際、崩落した石の側面から建設時に石工が祈念や地鎮のために描いたとみられる「人形(ひとがた)」と呼ばれる人物の線刻画が発見された[24]。
引用終了
この内容からすると、加藤清正の頃にこの石垣が作られ、その後に何度か大地震に遭っても石垣は崩落しなかったのに、2016年の熊本地震で初めて崩落したと言うように見えます。
これは地震だけでなく大木が有ったからとの説もあるようですが、過去にも同様に大木が有ったのに崩落しなかったのかどうか、と言うのが定かではない為、大木が要因とは断定しきれていないと言うところでしょうか。
金沢城にしても熊本城にしても400年以上、大地震の時も崩落しなかった石垣が仮に初めて崩落した、と言う事だとすると、やはり近年からの地震の活発化が尋常ではないのかもしれない、と考えてしまいますがどうでしょう。
金沢城については次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%B2%A2%E5%9F%8E
築城主 佐久間盛政
築城年 天正8年(1580年)
主な改修者 前田利家・利長
主な城主 佐久間氏、前田氏
廃城年 明治4年(1871年)
遺構 長屋・門・櫓・土蔵・土塀
移築能舞台・石垣・堀
(中略)
金沢城(かなざわじょう)は、加賀国石川郡尾山(現・石川県金沢市丸の内)にある日本の城。江戸時代には加賀藩主前田氏の居城だった。城址は国の史跡に指定されており[1]、城址を含む一帯は金沢城公園(かなざわじょうこうえん)として整備されている。
(中略)
2024年(令和6年) - 1月1日に発生した令和6年能登半島地震の影響で、4か所の石垣が崩壊。[14]翌2日より安全確認が取れるまで当面の間、公園内と兼六園を臨時休園とし、開催中の夜間開園及びライトアップの中止を決定した。[15][16]
引用終了
金沢城が強い地震に遭ったのは何も今回だけではないのですが、過去の大地震で石垣が崩落したかどうかと言う記録は今の所、ネットでは調べ切れていません。
ただ今回が初めての石垣崩落だとしたら、1580年の築城以来、440年以上で初めてと言う事になります。
そう言えば熊本地震の時には熊本城の石垣が崩落しました。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E5%9F%8E
熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市中央区(肥後国飽田郡熊本[注釈 1])にあった安土桃山時代から江戸時代の日本の城。別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」[1]。
加藤清正が中世城郭を取り込み改築した平山城で、加藤氏改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城だった。
(中略)
熊本地震以降
2016年(平成28年)4月14日21時26分以降発生している最大震度7の熊本地震の前震と本震(4月16日1時25分発生)など、相次ぐ揺れで被災した[9]。
4月14日発生の地震では、石垣の一部が6箇所の崩落のほかに石垣石の落下が複数個所で確認、重要文化財の長塀が長さ100メートルにわたって倒壊[10]。天守・櫓の屋根瓦や鯱も落下[10] と報じた。
本震の4月16日未明の被害については、熊本城総合事務所は「余震のため状況確認ができていないが東十八間櫓と北十八間櫓が倒壊した模様」[11]。その櫓の一部が隣にある熊本大神宮境内建物の屋根を突き破った[12]。
2016年6月10日の熊本市議会で石垣の被害について報告があった。熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みがあった。そのうち、崩落は50カ所、229面におよんだ。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟であったが、本震のあった4月16日の時点で、倒壊2棟、一部倒壊3棟。他は屋根・壁破損など、重要文化財建造物での被害は13棟となった。 そのほかに、復元建造物の被害は20棟におよび、そのうち倒壊は5棟。他は建物下部の石垣崩壊や屋根・壁の破損などの被害が報告された[3]。石垣の大きな崩壊の原因の一つとして、石垣の上に樹齢50-100年の大木が立っていたことを環境建築研究者の岡田好勝は指摘している。樹木は地上の部分の方が根よりも重く、枝の広がりもあって、根は揺れによるモーメントを根回りの土壌に逃がそうとする作用が働き、その反作用で根が埋まっている周辺の石垣に相当な圧力をかけたため崩落を助長したとする主張である[13]。
(中略)
石垣
清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。
2016年の熊本地震の際には石垣の約3割が崩落する被害を受けたが、その際、崩落した石の側面から建設時に石工が祈念や地鎮のために描いたとみられる「人形(ひとがた)」と呼ばれる人物の線刻画が発見された[24]。
引用終了
この内容からすると、加藤清正の頃にこの石垣が作られ、その後に何度か大地震に遭っても石垣は崩落しなかったのに、2016年の熊本地震で初めて崩落したと言うように見えます。
これは地震だけでなく大木が有ったからとの説もあるようですが、過去にも同様に大木が有ったのに崩落しなかったのかどうか、と言うのが定かではない為、大木が要因とは断定しきれていないと言うところでしょうか。
金沢城にしても熊本城にしても400年以上、大地震の時も崩落しなかった石垣が仮に初めて崩落した、と言う事だとすると、やはり近年からの地震の活発化が尋常ではないのかもしれない、と考えてしまいますがどうでしょう。